乱蘭通信200号・思い出すまま  ↑prev next↓

 東郷さん
 古い水俣時代の知り合いに東郷さんという人がいます。水俣病告発する会は、色んな大学の出身者がほとんどだったのですが、彼は学生ではなく、当時は地下鉄工事の仕事をしていました。東郷は本名ではなく、ニックネームで、親しい人はトンちゃんと呼んでいた。
 八月下旬、九州から、古い写真のコピーと、郵送代カンパが送られて来た。古い昔の記憶が蘇ってきました。
 
 一番記憶に残るのは、正月の元旦、鹿児島川内市の新田神社で、初詣客に川内原発反対のビラ配りをした事です。彼は鹿児島川内の隣町の出身、水俣病から原発反対と、鹿児島大の橋爪先生、予定地のお母さんたちと行動を共にするする事が多くなっていました。ちょうど水俣に僕もいましたので、手伝いに同行したのです。
 ビラ配りを終え、彼の実家の正月料理をご馳走になりました。お餅に唐芋を入れて搗くのには驚きました。粘りは少なくなるが、柔らかさは後々まで残るしろものです。
 遠い記憶になってしまった。
 
 ウクライナの原発の戦争利用、福島原発事故など、原発をめぐるニュースは絶えません。僕は一貫して変わらないのは、研究用以外は原発は廃棄すべきだ思っています。地球は太陽からの膨大なエネルギーで現在の環境があります。また地下には、核分裂で蓄積された膨大なエネルギーが、溜まっています。それを利用するのが、環境に最も負担の少ない、エネルギーの使い方です。
 
 帰郷
 十月の連休、田舎に帰って来ました。昨年十二月に死んだ兄貴の墓参りです。会津の小さな山の町、コロナ無菌の町ですので、葬式は会津以外の親戚は遠慮してくれとの事、帰りませんでした。今回里帰りして、ここの区切りをつける事ができました。
 兄貴というより、12歳年上ですので、小お父さんという感じですでした。僕がアウトロー生活に入ってしまったので、兄貴との心のわだかまりは晩年までなかなか取れませんでした。難しいですね、肉親は。
 
 兄貴の子供、甥が実家に戻り、葬式を仕切った。兄貴の後継者です。彼が大工仕事を始めたというので、押し切りやコンプレッサーなど大型の大工道具を彼に譲った。車で帰ったのだが、那須の山の中で、故障、修理不能。車は廃車、甥に迎えに来てもらった。車は廃車にしようと思っていたのですが、少し早まっただけのようです。
 帰り道、喜多方に寄り、高校時代の友達とラーメンを食べ、四方山話をして来た。真面目な銀行員を務めて、定年後はさまざまなことに積極的。そういう話を聞かされると、僕のアウトロー生活が正しかったのか、考えさせられます。
 帰りは鈍行列車を繋いで、初めてですね。新幹線使わずに鈍行だけで東京に帰るのは。
 
 兄貴が死んで、実家との付き合いも新たな段階に入ったことを実感した帰郷でした。「心が溶け出す」と言う表現は、新たな実家への感覚です。    
 
 芹沼 帰郷二
 僕の実家は会津と越後の国境、阿賀野川が、地元の人は阿賀(あが)川と野が入らない川名を主張します。川は南下して芹沼で方向転換し北へ向きを変え、新潟へ流れていきます。僕の実家は山と川に挟まれた一番狭いとこにあります。川と山の間は百十メートルもありませんね。不動産を祀る岩山、奈良時代から続く古い道、実家、磐越西線、国道、田圃があり、そして川です。
 下流にダムがあるので、ダム湖になっています。北に向きを変えた川の遠方に飯豊連峰が聳えています。会津盆地は磐梯山ですが、僕の実家からは、磐梯山は全く見えません。その代わりに、飯豊連峰が心の山です。
 
 恐らく奈良時代以前から、会津と越後の街道沿いに、僕の実家の村「芹沼」はあったと思われます。この地方に最初に仏教がやってきた伝説に、芹沼は登場し、観音岩とか残っています。それらは僕ら村出身のプライドでもあるのです。
 
 室町時代、武藤という武士が柵守、小さな関所、として赴任し、そのまま肝入り、名主として居残ったのが、武藤の名の始まりです。
 本家は旅籠を経営し、不動尊前に茶店を出していたのですが、それが明治の初めの頃分家して、僕の実家なったそうです。
 
 狭い土地です。農業する土地も限られていますので、4、5軒しか家を増やせなかったのです。しかし、街道沿いですので、行商や通行人から上るものが、村の経済を支えていたのでしょう。また川の存在も大きく、下流にダムができる前は、シャケが上がって来て、その漁の権利を持っていたそうです。 また幕藩時代は会津藩のお米をこの川を使って新潟へ荷運んでいたので、それにまつわる様々な仕事が、川沿いの人々に回ってきたと思われます。
 
 一千年以上は長く続いている事は、感動的です。それを支えた経済的基盤はしっかりしていたのです。
 
 
 
え・ちえ 
 ウクライナ戦争
 先行きが見えてきました。プーチンは合理的に考えられる政治家ですが、彼に上がってくる情報が、彼が見て都合の良いことだけで、大きく判断を狂わせたのです。典型的な裸の王様になってしまったのです。
 
 少し離れてみると、戦争当初からロシアの第二次の解体の始まりとみています。この敗北は、ロシアの必然な歴史的経緯ではないでしょうか。旧ソ連はアメリカに対抗する一大勢力であったわけです。大帝国です。大帝国はそのピークを過ぎると解体しゆくものです。今回の敗戦で、他民族国家ロシアは更なる解体へと進むものと思われます。カザフスタンを始め中央アジアの国々、ロシア国内の少数民族国家も、ロシア支配から距離を取るようになるでしょう。
 
 ロシアが再生する為には過去栄光から訣別する必要があるのですが、それが不十分で、プーチンは改革を途中でやめてしまい、権威主義に逆戻りしてしまった結果です。自由経済の底地からを無視した結果です。軍事大国を主張するなら、装備の近代化は欠かせません。それを保証する経済力がついていないのです。ウクライナを甘く見た戦略の町会は大きいですが、軍そのものの古さが負けの原因です。
 
 驚いたのは、死亡したロシア兵士の数の不均衡です。大都市のロシア兵士より地方の少数民族の兵士が、一桁二桁多いのです。これからこの差別は政治問題として、今後大きく浮上してくるものと思われます。
 
 核兵器
 使いたければ使えば良い。現在の戦争は、旧ソ連の核兵器をウクライナからロシアに移管した時、ウクライナの安全保障は守ると約束している訳で、ロシア条約違反しているので、ウクライナも守必要はない。NATOは小型戦術核をウクライナに与えれば良い。
 ロシアがウクライナに核兵器を使うなら、モスクワも火の海になれば、良いだけです。この方がフェアーと言えます。世界がロシアに遠慮していると言うことです。
 
 
 ウクライナ戦争の今後 プーチンを支えているもの
 ロシア人は多くを望んでいません。生活の安定があれば、プーチンを支持するのです。経済制裁は、普通の生活まで脅かす程の効果を上げていません。ロシア経済は、石油や天然ガスのエネルギー資源、豊富な農産物に支えられているので、それ以外の産業の打撃だけでは、素朴なロシア人は、積極的な反対はしないのです。しかし戦死者が十万人に近づくにつれ、少しずつ変わってきつつあります。
 ロシアに民主主義は定着していません。個人の積極的な政治意識で社会は変わる。と言うことを理解していないのです。ソ連崩壊とともに形は民主主義に変わりましたが、政治的混乱と経済の低迷といった悪い印象が脳裏にこびりついているのでしょう。プーチンはその混乱を収拾し、ある程度安定した生活を保障したので人気があるのです。しかしあるのはそこまで、生活の不安定や戦死者の増大で、プーチン支持は壊れます。
 プーチンが戦争ではなく特殊な軍事行動と、言葉にこだわって来たのは、ロシア人への直接被害が少なければ、反対に回らないと、読んだからです。
 
 ネオナチ、NATOの脅威と言っても、一般国民には関係ありません。ロシア軍はの士気が上がらないのは、戦争する正当性が理解出来ないからです。九月に入りそんなロシア国内の政治的状況が変わりつつあります。部分的と強調された、予備兵の徴兵、戒厳令の導入と、実質的な戦時下へと変わりつつあります。
 プーチン政府はもはや、出来るだけ早く停戦し、自国民の犠牲が増えないように、様々な戦略を行なっています。徹底抗戦と後に引かないウクライナ人とウクライナ軍との折り合いが何処でつくのか、予想が出来ないのです。
 ウクライナはクリミヤ半島の奪還を掲げています。プーチンの完全敗北です。それをプーチン政権が認めるとは思いません。プーチン政権崩壊まで進まざるを得ません。ロシア国内ののプーチン支持が大きな鍵となります。
 
 アメリカ、NATOの対応
 よくやっていると思います。ここまでウクライナ支援の結束が緩まないのは、ロシアとの戦うウクライナ時の姿に、現在の民主主義を確立するために、多くの血を流した自らの歴史を見たからではないでしょうかね。
 ロシアの核の脅し、天然ガスによる揺さぶりとヨーロッパ諸国も大きな影響を受けています。しかしとても冷静に対応してきました。武器の援助も携帯用の武器からと、ロシアの反応を見ながら慎重にです。小型核でも使ったら、本格介入し一週間でロシア軍をウクライナから追い出す。と言う非公式ですが、その脅しがきいていると思われます。
 国際社会のリーダーとしての先進国の対応は、高く評価すべきだと思います。
 
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木目