乱蘭通信No85掲載文
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「僕は、はじめて海へいった、、、、、、」

徳田 ガン

 やっと、訪れた晴れ間だった。私は、白いカーテン越しに、木々が揺れる影をみつめていた。数メートル先の木々や葉が、風に揺れているだけなのに。白いカーテンの影達は踊っていた。それもけっして同じ振りではなく、その濃淡はまさに映像であった。一枚の白い布が虚構性を創ったのか、見えるものとに、距離という隔たりを置いたためだろうか。その影の映像は、まるで嘘のように、キラリとひかり輝いていた、あの燦々たる陽射しの海に変わっていった。

 「僕は、はじめて海へいった、、、、」と、宿題の作文に書いたのは、小学校4年生の時だと思う。それまではプールと川しか知らなかった。兄は、来年受験ということで母と残り、父と姉二人と僕と、父の会社関係の家族が一緒だった。行く先は、外房海岸の白浜であった。千葉の館山からバスだった。宿泊は会社の知人宅だった。何か商売をしていたような気がする。確かすぐ近くに小さい港があった。そこに、捕鯨で使われるキャッチャー・ボートがあり、船先には、大きな銛が取り付けてあった。夕暮れ時、深い港で地元の人達が、達者に泳いでいた。夜になると、静かだった港は活気づいた。鯨の解体がはじまったのだ。鯨が、生きたまま大きな薙刀で裂かれてゆき、解体されていった。肉が破片になってもビクビク動いていたのは、強烈な印象である。別に怖くはなかった。翌日、真夏日の下、砂浜でたっぷり泳いで遊んだ。

 「まぶしいですな」

 「まぶしいです」

 「年々歳々、まぶしくなりますなあ」

 「去年は、これほどまぶしくなかったですよ」

 「若い時には、海をみると飛込んだものですなあ」

 「準備体操もろくにしないで、泳いだものです」

 「泳ぎたい気持ちは、あるんですがね」

 「そうですね、、、、お互いに、、、、、、」 

 確か父は、個人で長いこと海外からくる船荷の損害貨物の鑑定をしており、かなり生活は不安定だった。このころ定年になりかけたころ大学時代の友人の会社に転り込んだようだ。

 「御長男は、T大ですか、、、、、楽しみですなあ、、、、、」

 「いやあ、まだ入ったわけではないので、、、、、、」

 「御次男も賢そうでなによりです、、、、」

 「いやあ、あいつは、、、、、、大器晩成って、やつですかね、、、、」

 「あっはははははは、、、、、、、そうですか老成しそうな感じですな、」

 「あっはははははは、、、、、、」

 「あっはははははは、、、、、、」  

 あのとき、大人達は、なにを笑っていたのだろうか。私は、55歳というおやじと同年齢になってはじめてあの笑いが、涙が出るほどおかしいことが、今、わかるような気がする。大器晩成といわれつづけて、55歳を越した時にそれは、それがどんな言葉の裏返しだったことか。人生短くもあり、暗い青春でもそれなりの夢抱き、やがて世に出て、それなりに恋をして、結婚して、子供をもうけ、振り返ってみると、俺は何をしてきたのだろうか、実は、なにもしてこなかったような気がしてならない。大器晩成とう誉れ言葉は、この子には才能がないという言葉の裏返しであり、あの二人が、私というよりむしろ自分達の長くも短かった一生を笑った、長い長い笑いだったのだ。

 頃は昭和33年、もはや戦後ではなかった。電気屋でしか見ることが出来なかったあの力道山の空手チョップを目の前で、一人占めに出来るようになったのだ。街頭テレビから、近隣テレビ、御茶の間テレビに移行していった時代だ。うちも白黒の中古テレビを買った。それは6チャンネルまでしかなかった。確かほかでは10チャンネルまであったようだ。あのころは、よく外で遊んだ。夏は、朝早く、ケン坊と一緒にかぶと虫を取りにいった。徐々にエスカレートしてゆき、早朝、4時ごろ出発して、隣の町の奥深い森までゆき、かぶと虫やくわがたをいっぱい捕まえてきた。その大量の虫たちが、手製の虫箱から、夜中に逃げ出して、家中大騒ぎになったこともあった。

 その年には一万円札が登場したらしいが、見たことはなかった。一日10円もらって喜んでいた。世は、ミッチーブームであった。皇太子妃に一般人の正田美智子さんが決定したのだ。日本の近代化は、メデイアの変革とともに始まったようだ。テレビにより、ラジオ、映画は直接的な影響をうけたが、新聞、印刷メデイアはマイナスにならずに、かえって週刊誌ブームをつくり、ジャーナリズム、ジャーナリストという言葉を生んでいった。マスコミ時代のはじまりであった。

 白浜からの帰りだ。帰る準備も終わり、バスを待っていた。 

 「まだ時間があるから、おひとつどうぞ」         

東京では見られない大きな西瓜の切り身が、いくつも盆に載っていた。赤い実が締まってよく熟れて、おいしそうだった。皆は、おいしそうに食べ始めた。  

 「あれえ、どうしたの、、、、、いまさら、遠慮しないで、、、、、」  

私は、乗り物に弱いので、なおも躊躇していた。    

 「おなかでも痛いの」                 

 おもむろに手をのばして、切り身の三角の山をガブリとぱくつく。口中にひろがる甘さは、抜群だった。西瓜の新鮮なにおいが広がった。あら塩をたっぷりかけて、本格的に食べ始める。冷え方も上々であった。バスに乗ることもすっかり忘れて、おなかがパンパンになるまで食べた。

 やがてバスはやってきた。

 白浜の人達と、手を振って別れた。海の景色が消えていった。束の間、酔いが始まった。玉粒の汗が、ポロポロと顔面から流れて、やがて寒くなった。すでに我慢出来なかった。隣の父が、透明のビニール袋をひろげた。そこに鮮血のような先程の西瓜が、どっと流れた。タネはとったはずなのに、随分と黒いタネがあった。そんなにも食べたのか、袋はあかい汁でいっぱいになった。はちきれそうなその袋を、長いことバスに激しく揺られながら、父は持っていてくれた。厳しかった父のことだから、激しく叱責されると思っていた。大分経ってから、「もう大丈夫だ」と吐いた唇をタオルでぬぐってくれた父は、やさしかった。私はぐったりとしていた。よせばよかったのにと、自分が恥ずかしくなり、私は黙りこくった。長い長いバスだった。やっと館山駅に着いた。次ぎは、汽車である。汽車が、出るまで、皆で、アイスクリームをたべた。私は、遠慮した。汽車が出発した。 

  「うまいぞ、少し食べてみるか、」 

と父は、アイスをさしだした。先程のこともあるし、恐る恐る食べた。そのアイスはいつも食べていたキャンデーではなく、本物のアイスクリームだった。

 白いカーテンは、光の具合だろうか、影の踊りをやめた。白いカーテンは白いまま、風に揺れた。今年の夏は、冷夏だった。4月から息子が独立したため、家は静かだった。20何年振りの静けさだろうか。その静かな家で、私は、私と同い年の頃の父をおもった。この年で、10歳から19歳まで、4人の子を抱えていたのだ。あの海へ行った頃から、怖かった父は、ヤギのようにやさしくなっていった。やがて入退院を繰り返し、東京オリンピックの年に、父は、亡くなった。

 白浜の海へいってから、5年後であった。

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