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 たらちねの、母がそのなる、桑すらに、
願へば衣きぬに、着るといふものを
作者不詳
意味: 母が仕事で扱っている桑(くわ)でさえ、心から願えば、衣になるというのに。


 
 なかなかに、人とあらずは桑子くはこにも、
ならましものを、玉の緒ばかり
作者不詳
 
意味: 人として生きているよりも蚕(=桑子)にでもなったほうがいい。わずかばかりの命だとしても。


 
 桑の実に顔染む女童にくからず   飯田蛇笏






図①手ぐりによる糸取り(江戸時代までの養蚕) 図②筒胴ベルト回転による糸取り(江戸時代)

    

 製糸法で最も原始的なのは図①のように繭から直接手で糸をひき出し、枠にも巻かずに、たぐり寄せておくだけというもので、道具とか機械とかは全く使われていません。
 手挽きは、古くから江戸時代まで行われていた繰糸法で、片手で枠を回し、他方の手で糸によりをかけ、絡交を行い、繭をつけたす(接緒)ときは必ず枠を止めるというものです。
 この繰枠、枠台にはいろいろな形のものがあり、角枠の場合には枠手に箸をさしてこれを把手として回し、丸枠の場合には手で叩いて回転させるようになっていました。

・古代の中国四川省では桑は神木だった。
・青森県の三内丸山遺跡からは桑の種子が大 量に出土した。
・糖尿病の改善や予防に効果が期待できる。
・材は家具用として使われる。
・樹皮は和紙の原料となります。




 くわ   Morus bombycis Koids.   〔くわ科〕
 
 ひろく畠や山地に植えられている落葉高木。幹は直立して分枝し、大きいものは高さ10m、径60cmにもなるが、畠のものはたえず刈り取られるので低木状をしている。葉は有柄で互生し、早落性の托葉があり、卵形ないし卵円形で、先端は急にせばまって尖り、基部は多少心臓形。葉のふちにはきょ歯があり、しばしば分裂し、表面はざらつき、裏面に微毛がある。4月、新しい枝の基部に腋生して、有柄の穂状花序を出して垂れ下がり、淡黄色の小花を開く。雌の花穂は雄の花穂よりも短い。雌雄異株、時には同株。花にはがく片4個あり、花弁はない。おばなには4個のおしべがある。めばなにはめしべが1個あり、子房の先には直立した花柱があり、先瑞は2裂する。果実は痩果で多肉質となった宿存がくでつつまれ、密に穂軸について長楕円形となり、いわゆるくわのみとなるが、これは果穂である。増大したがく片は熟して黒紫色となり食ぺられる。葉は養蚕に用いる。この種に山に自生するヤマグワ(forma spontanea Makino)があるが、これは果穂につく果実がきわめて少なく、葉柄はしばしば紅色である。

 〔日本名〕語原に関しては2説がある。一つは食葉(クワ)であるとし、他は蚕葉(コハ)の転したものであるという。いずれもカイコの食う葉という意味である。
 〔漢名〕桑は慣用の名で、正確には日本産のクワではなく、支那産のものの名である。
-牧野植物図鑑-




 初夏も過ぎ夏が近づくと、どこにでもある桑畑に小さな黒紫の実を食べながら学校から帰宅するのが、僕の小さい頃の当たり前の風景だった。僕の実家でも蚕を飼っていたこともあるし、木苺と並んで、桑の実は子供達のおやつを見つけるという冒険心をかき立てるものだった。学校から、農薬や埃などそのまま食べると危ないと「禁止例」がたびたび出されたが、好奇心まで止めることはできなかった。(まもる)



 




 追記・シルクについて
 桑のことを調べて行くとシルクに至たる。歴代の中国の皇帝は桑や蚕が国外に持ち出されることを極端に恐れた。絹製品としか輸出を許可されなかった。同じ様に支配者が外貨獲得のため国外に持ち出されることに極端に警戒したものに「コーヒー」がある。アラビア商人がアラビア半島にエチオピアからコーヒーを持ち込んで、イスラム世界に広めた。しかし、アラビア半島からは生の種の持ち出しは厳しく禁止された。かなず火を通した物しか輸出が許可されなかった。しかし正確なことは分からないが、それを管理できたのは五世紀間位でしょう。大航海時代以降、ヨーロッパに生の種が持ち込まれ、更に世界中に広まることとなる。

 それに比べると、シルクは二千年間西欧社会では製造法の分からない高価な製品だった。もちろん、桑と蚕と二つの生物の成育法まで習得しなければならいこと、距離が遠いと言うこともあるだろうが、紙も鉄も火薬も、当時権力者がいくら極秘にしても、草原の道やシルクロードを通って伝わっている。シルクだけ伝わらないというのは歴史の不思議と言うほかない。
 日本に関しては、弥生時代に桑も蚕も日本に入ってきていることが確認されている。しかし、江戸時代までは、国内製品は中国製品に太刀打ちできず高価な輸入品だった。江戸時代の初期国内が安定し絹の需要が増えると、日本の金の半分が中国産の絹に変わってしまった。再三出された贅沢禁止令の背景にはこういう事情があったのです。幕府は国産絹の良質化に力を注いだ。秘密裏に白く大きい良質な中国産の繭の入取 、栽培育成技術の向上、作業工具の開発等に勤めた結果、江戸時代半頃までには、中国製品におとらぬ製品に押し上げることに成功した。後期、末期には日本の主な輸出品となった。明治政府にとって生糸は貴重な外貨獲得品あり、機織りの機械化が即、産業革命を起こす原動力だったのです。

 その陰で秩父困民党や岡谷の紡績工場に働きに行く女工達の過酷な労働といった暗い歴史も同時にあるのだが、江戸時代からごく最近まで(昭和の高度成長期まで)農家の貴重な現金収入源だった。僕もお婆ちゃんが蚕に桑をやる姿を覚えています。江戸時代の農民はこんな副業で小銭をため、一生に一度お伊勢参りと言う観光旅行する余裕はあったとということですし、戦争ばっかりやっていたヨーロッパの農民よりは豊かでなかったかと思います。シーボルトが来日した頃、ヨーロッパでは大貴族しか絹製品を身に付けることができなかったのに、日本では町の頭とか御隠居言われる中の上の人なら絹の羽織やら一枚は持っていた。文化の質が違うから単純には比較できないが、豊かな時代だったのです。

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