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9 月 の 庭劇場

「 生 き て る 」

9月26日(水)~ 30日(日)

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  素敵な写真を撮り、文章は洒落ていて、かつ温かい、世に得難い人物とわたしは思う都筑響一さんが、独居老人のスタイルという記事でわたしをとりあげました。
 わたしというより、わたしが住んでいる家を取り上げたといってよい。数々の写真を取材の間に納めていた。帰り間際、濡れ縁に家に居ついている猫のクウニャンとよんでいましたが、写真を撮りました。クウニャンはそれは見事な青っぱなを垂らしていたからです。長い間 、鼻炎をわずらっていました。そのクウニャンが9月17日に亡くなった。わたしが数分目をそらしていた間に逝ったのです。
  その朝、庭にいたわたしの前に、突然クウニャンが目に入りました。四肢を折り畳み、頭を垂直に垂れてうずくまっていました。数日ぶりの対面でした。部屋にあがりたがっていたので抱き上げると、いつもの居場所へふらふら向かい、バタと倒れた。両の目はつり上がり、水も受け付けない。午後。わたしが触れたとき、クウニャンはからだをねじる姿態で固まっていた。柔らかな猫が数分で硬直したのです。

  昨日。クウニャンの夢をみた。わたしはある場所の土中にクウニャンを埋めている。クウニャンはその土中から這い出てきた。ヒゲや顔に泥がついている。左目がヤニで塞がっていた。わたしが目薬をたっぷり左目に注ぐと、クウニャンは気持ちよさそうに顔を膨らませて、漫画にでてくる幸福そうな猫の顔になった。
  むろん、わたしは死後も生きると思う意識をもっている。ただし、それは生きている側にその世界はあると。わたしの中に、わたしだけではない、地球儀のような球体面が存在する。どこに。脳か掌か心臓か重力か。どこでもよいのだ。蓮の葉っぱの上の水滴の球体。その面に中に世界がうつし出されかつ存在する。自意識では地上はどこまでも平坦だ。わたしは意識の相対で無意識をいってはいない。数式のように無意識はとらえられない。わたしは無意識のただ中に生息していると思うだろう。
          首くくり栲象

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