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メモランダム1966
その四 


 「ヘイ マーン。ブッダみたいな悟りを得たかね?」と彼は静かに語りかけてきた。
 「なんだよ。食ったばかりだというのに、禅問答か。ミスター ビートニク」ビルがとたんに腹を立てた。
 「誤解するな。そのミルク・ライスこそ、ブッダが激しい修業をし続けたのに悟れず、絶望して洞窟を出て倒れていた時、村娘スジャタが捧げた食物だ。それに力を得たブッダは、ブッダガヤの菩提樹の下に座り悟り、ニルバーナに到達した。つまり、悟りの原動力を君達は食ったという訳だ。」
 「なるほど。ともかく、うまかった。きつい旅の後だったしな。」
 「ところでどうだ。俺達流の通過儀礼、イニシエーションは」そうミスター・ビートニクは、コブラが頭を上げた姿を浮き彫りとした大きな陶器のズンドウ型パイプ、チムルをビルに渡したのだ。
 「まずは、イスタンブールの夏に東に発った三百人の内、ここまで持ったのは三十人。その偶然のカオスの渡り歩きの成就を祝して、ボム!」と彼はマッチの火をビルの掲げたチムルに近づけた。
 
 それからは、俺達のテーブルめがけて次々とチムルが廻ってきた。店全体が、高速度で回転するマンダラみたいに、世界のあらゆる想念がチムリの煙に入り混じってきたみたいだった。俺達はそのマンダラの最中で、母乳をむさぼる赤ん坊や蜜を集めて飛び交う蝶、風に乗り雲を抜いて飛ぶ鳥のようになってハシッシを吸った。俺にとっては、それほどの量をぶち込むのは初めてだった。
 
 それからどれだけの時が経ったのかは知らない。「コングラチュレーション」とヨーが言っている。これまで見ることのなかった明るさ一杯の笑みを浮かべて。「おめでとう」と俺に言ったのだ。あたりの皆が同じように、俺に向かってニコニコと祝福しているのにも気がついた。(ここはグローブ・レストランのはずだ。でもなんという変わりようだろう)
 入店した時に見たのは煙にくすんだ人影だけだった。今、そのなごりはまったくない。中央に下がる一個の裸電球の光量が数万倍にも上がったかのように、室内は燦然と輝いている。でもその光はまぶしくない。光はあくまでも優しく柔らかに俺達の細胞の隅々にまで滲み渡っている。
 チムルの嵐は収まっている。ハシッシの煙はテーブルの高さまで降りている。俺の正面に浮かぶ雲のような煙の層の上に、三人の姿が集っている。チベット人老人を中心として、左右にガンジャ・マンとミスター・ビートニク。他の者達もそれぞれ相応しい煙の雲に浮かんでいる。互いに適度の間隔を保ちながら。たぶん、俺もそのように浮かんでいる。
 
 静まり返った夜更けの街より、遠い過去の記憶を呼び戻そうとしているかのような野犬の遠吠えが届いた。その長い余韻に合わせて、チベット人の老人が両掌をゆっくりと開くや孤を描いた。その孤が野犬の遠吠えの意味する世界であるかのように見えてくる。
 闇の永遠に深まって行く盆地の街を「チリーン チリーン」小さな鈴の音が澄み渡って行く。その日最後の祈りに廻る老人のものらしいヒタヒタとした足音。「チリーン」それから生と死の狭間に吹きそよぐ声明。グローブ・レストランの閉まる時が来た。ミスター・ビートニクが、レンガの床にゴロ寝できる格安な宿を案内してくれるという。今日やり残したのは、横になってひたすら眠ることだけである。
 
 一歩道に出ると星がまばたいていた。どうやら埃は、夜の大地の湿りに吸い取られたようである。灯明の油も燃え尽きた。勤めを終えた偶像も、石や木や金属に戻った。半ばとろけながら歩みを進める俺達と揺れるリュックサックの他には、活動している存在はない。六・七階建ての家並みが、深い寝息を立てているだけである。
 だがカトマンズのトリックは何重にも仕掛けられていた。その星明かりだけに照らされた街のあらゆる道は、野犬の群に占拠されていたのである。それが前後左右から襲ってきた。骨盤がハゲた皮を突き上げるまでに痩せ細ってはいても、群なせば地獄の魔王ともなる。憎悪に燃える野犬の目の群が、足元に食らいつこうとして迫る。皺だらけの鼻、毒々しい口からは死臭が放たれている。家並みの谷間の道は闇に近い。野犬は夜目が利くというのに、俺達は間近に奴らが迫ってからようやく気付くという有様だ。
 
 ビルがリュックサックを振り回して盲滅法に追っ払おうとしたが、返って騒ぎは大きくなった。野犬の群は益々膨れ上がった。
 「むきにならないで。これは深夜のセレモニーなんだから。奴らは脅しているだけで、こちらがクールである限り噛み付きはしない。ただ自分達の縄張りをデモンストレーションしているだけなのさ。ひとつひとつの縄張りを静かに通り抜けて行くしかないんだ。この街は、人間のためのものだけじゃないんだから。」ミスター・ビートニクの忠告通りに俺達は、身震いしながらもゆっくりと無言で歩いてみた。なる程、野犬の攻撃の勢いが引いた。適度な距離を置いて威嚇しているだけのようだ。それでも時折足元まで迫ってくる。脂汗が背中にジットリとへばりついている。
 
 そんなパニックの最中だった。ミスター・ビートニクが、絶え間のない犬の咆哮にも構わずに俺に話しかけてきた。
 「ヘイ マーン。輪廻転生、リエンカーネイションを信じるか?」
 「俺達自身が子供を作って遺伝子を残さない限り、死んだ後には何も残らないだろう。生まれる前は両親と先祖の遺伝子があった。あるいは、例えば今ここで俺が死ねば、犬に食われてその一部となる。土葬されたら死体は腐る。バクテリア、虫、植物、草食獣、肉食獣と次々とその一部となって振り出しに戻る位しか考えられない。」
 「それは生理的な堂々巡りのことだろう。俺は心の遺伝子がどう繋がって行くかを考えているんだ。偶然の連続としか思えない意外な系譜のことだ。」
 「親や先祖の性格と、生まれ育った環境や人間関係の他に、人の心を決定する何かがあるというのか?」
 「そうだ。先だってチベット僧と深夜歩いた時から、もしかしたらあると思い始めた。この野犬の群が、そのチベット僧にはまったく吠えないどころか、クンクンと慣れついて来たのを目の前としているからだ。どうしてなのか聞いたら、あらゆる人間の心は動物の心であったことがあるし、また動物の心も人間の心であったことがある、と答えた。だから、動物ともお互いに良く判るし通じ合えるのだ、と。」
 「じゃ、俺の心もこの中の一匹であったことがあると言うのか。たまんないな。」
 「食うためや縄張りのためなら何でもやる人間が一杯いる。この犬の群と変わりがない。それに輪をかけて、人間は贅沢や主義主張や権力欲のためだけに何でもする。やり過ぎて世界をぶっ壊すほど。この犬の方が節度があると思うようになってきた。奴らは今、俺達を縄張りから追い出すだけで満足するだろう。夜が明ければ、見事に人間に縄張りを明け渡す。毎晩俺はこうやって、通させて下ださい、教えて下さいと歩くのだ。」と彼は合掌した。
 「それにしても、この桃源境みたいな街で、昼はまったく無関心な土地人、夜は獰猛な犬にしか出逢わんとは極端過ぎるな。」
 「その両極の他にも多くの極端な存在がある。俺が会ったチベット僧もそうだった。しかも極端な存在の間にも多くの存在があるのだ。この犬の群にも多くの違った存在があるように。いつか互いに認め合う時が来るだろう。少なくとも、かなりの数の犬の心を見分けられるようになった。俺の心を犬の心の内側に見るようになってきたんだ。」
 そう言われて犬を見たら、一匹一匹がかなり違う。そして節度があるのにも気づいてきた。
 リエンカーネィション、転生とは、心を投影し投影されることなのかも知れない、と思った。どことでも、何とでも互いに投影できたらどうなるだろう?でも現実には、足元に迫る野犬の群に、俺の脂汗は流れ続けているのである。
 カトマンズ入境一日目にして、これほどまでの極端から極端への渡り歩きだ。さてこれからどうなることやら、だ。
 
メモランダム1966  1 ミスター・ビートニク 完
 
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