No125/写真 index No138その二

2011年3月11日、僕は瀬戸内の小さな島に居た。
 
澤村 浩行
 
 昨年、2011年のあの3月11日、僕は穏やかな瀬戸内の小さな島、本土と目の先に浮かぶ長島の入り口、山口県上関町に居た。潮流が素早く抜ける、その島と本土との間の狭い海峡には、アーチ型の上関大橋がかかっている。
 うららかかな日ざしにつつまれた昼下がりだった。僕は久しぶりの焼酎を求めて家を出た。もう顔をしかめざるを得なかった冬風の季節は終わっていた。細長い島の防波堤沿いの車道は、人口3500人ほどの過疎地にしては交通量が多い。それを横切り、内陸側の古い家並みの中に入ると、時が止まっているかのようだ。軽自動車一台がようやく通り抜けられるだけの舗装道路が、町並みをくねくねと抜って行く。僕はゆっくりとその道をたどって歩いた。
 相変わらず人気が無い。かって北九州と関西の間の石炭海運業が盛えた頃には、数軒の置屋と映画館まであったと言うが、今は昭和20年代を舞台とした映画撮影が終わった後のセットのように、古い木造二階屋が肩を並べて沈黙しているだけである。陸運が主流となり、海運中継地としての役目を終えた港町は、町民が車で上関大橋を渡り本土に買い物に行くようになると、商店も数えるほどしか残らなかった。
 追い打ちをかけるようにして、28年前には原発建設計画が持ち込まれた。家族も隣人も、推進派と反対派に分断され、その時以来人口が半減し老齢化が著しい。この町の鮮やかにまで侘しい時の流れが、僕に染み込んでいる。正直、69歳となったばかりの僕に、メランコリーな静けさはたまらなくいとおしい。その時、僕はもう2ケ月近く上関町に滞在し続けていた。だが単なる旅情に浸っている場合ではなかった。
 
 初めてこの町に来たのは、4年前だった。原発の是非を問う6回目の上関町長選で、毎回負け続けていてもめげずに立候補する上関町祝島出身の原発反対候補者の為に、ビラ配りとポスター貼りのボランティアをするために来たのだった。
 以前から、あらゆる原発立地の現場で思い知らされた、札束で顔をひっぱたき、陰謀で町民を絡め取る、あまりにも強引で横暴な国と電力会社のやり方に心底腹が立っていたからだったが、上関町の場合は、もっと別格の理由があった。国と電力会社の圧力にも屈することなく、28年間反対運動を続けている、この長島先端の原発予定地田ノ浦沖合4kmに浮かぶ上関町祝島の、平均年齢70歳の漁民やおばあちゃん達500人の、自然のままに生きたい、と言う信念に深く共感したからだった。彼等は10億円以上の漁業保証金を受け取らなかった。
 そうだ、田ノ浦に奇跡的に生き残った、底まで透明な海、豊かな藻場と魚の群れもある。その瀬戸内海最後の原風景を見た時から、それが僕の残された人生の生き甲斐となった。ここを埋立られ原発を立てられたら、これまで負けるばかりだった僕の人生は、最後にも負ける。
 
 そして改めて昨年山口県に来たのは、冬の最中のことだった。世代は違っても、似たような思いをもっと鮮やかな行動に移した若者達が、山口県に現れたからだった。
 2011年1月21日、雪吹きすさぶ内陸の山口市にある山口県庁前のだだっ広いコンクリート広場で、関西と関東出身の、10歳代後半の少年5名が、上関原発計画中止を県に求めて、10日間の断食に入った。その3日目、僕の断食体験ではかなり辛い時期に当たっているはずなのに、穏やかにユーストリームを通じて訴える少年達のやつれ始めた姿をモニターで見た時、僕は彼等に会う決断をした。
 その夜、新宿駅西口三角ビルから新山口まで6000円、乗車11時間、リクライニングなしトイレなしの格安夜行バスに飛び込んだ。翌朝新山口下車、鈍行列車に乗り換えて数駅の山口駅から、粉雪の中を20分間ほど歩いた。行く手の高台に、山口県総人口145万人にしては豪勢な作りの県庁ビルがそびえ、うっすらと雪に覆われた無機質な大広場が手前に広がっている。その広場の入り口に、山口県庁、と彫られたぶ分厚い石碑が立っていた。
 5人の少年達がその石碑に寄りかかるようにして、雪にまぶされたまま座っているのがようやくわかった時、僕の目は潤んだ。その日、僕も断食に加わった。あたりにふんだんと敷き詰められたコンクリートの床から猛烈な寒気が襲ってきたが、彼等を支援している近所の主婦が毛布と座布団を貸してくれた。
 僕の断食はその日だけだった。少年5名は11日間、水と塩だけでハンストをやり遂げた。僕は、日中は県庁前や県庁内部を徘徊し、夜は支援者の家に彼等と泊まった。僕は、彼等のあくまで穏やかに淡々と訪問者と接っし、ユーストリームで発信する姿に感銘を受けた。県庁職員もそのように感応しているようだった。
 十歳代後半の若者達のユーストリーム観覧者数は、1日につき1万5千、励ましのメッセージが1000通、ハンスト10日目には、県庁のFAX機能が抗議のFAXにパンクした。そして彼等の回りには、50人ほどの老若男女が集まっていた。
 
 
 しかし、県は彼等の要望に答えてはくれなかかった。国がまだ正式な原発建設許可を与えていないのに、山口県は2008年、中国電力に予定地田ノ浦の埋立許可を出した。民主党の地盤原発労組連合と、アメリカの産軍複合体と、日本でそれに相当する地位を誇る官僚と土建業の津波のような圧力に、上関の状況も切迫して来た。
 埋立のための台船が近くの島に集結されたのだ。以来僕も、上関原発問題に係りっきりとなる。この期に及んで、身を引く訳にはいかなかった。幸いにして、60歳代後半から大したアポは無い。だから歴史的な出来事に関心を持てるようになった。
 これまでの人類の歴史を考えた。自分自身の生きた時代も検証する余裕が出た。それが個人史とかなり関わっていたことも知った。特に核による被曝の歴史が。
 米ソ核実験、第5福竜丸被曝事故、スリーマイルアイランド原発事故。チェルノブイリ原発事故の影響を当時僕が滞在していたイタリアで、身心共に痛く受けた。そして、イタリア人が原発を全廃する過程を社会体験した。以来 出来るだけ反原発と平和運動に関わって来た。
 今は、自分に残された時間を、ささやかながらフルに使って、核の公案に向かいたいと思っている。
 
 県が埋立許可を出すや、田ノ浦の海岸には屈強な若者と漁師達がテントを張って監視し始めた。その裏山に建てられたログハウス風の団結小屋では、シーカヤック隊が海上阻止行動に備えていた。
 僕は支援者が提供した上関町内の民家に泊まり、その室内のガラクタを整理して、より多くの行動参加者が泊まれるように準備をした。近所の住民のほとんどは原発推進派だから、心理的にはかなりのストレスがあったが、田ノ浦海岸のすさまじい冬の寒風に晒されるテント生活と比べたら、身体には楽だった。
 その、大工の親子が、自分達の家族が住むために建てたと言う大きくしっかりとした民家は、次々と上関原発問題に関心を持つ人が訪れては去って行く、運動関係者のためのゲストハウスのようになった。
 
 そして、2011年2月21日、非常招集がかけられた。中国電力は岩石や砂利を満載した20隻の作業用台船、それを上回る数の原発推進派漁船や中国電力の高速ボートが田ノ浦目指して押し寄せた。数隻の海上保安庁の高速ゴムボートは、完全に推進派に協力して飛ばしまくっている。
 対する原発反対側は、祝島の漁船30隻に、瀬戸内海沿岸から駆けつけたシーカヤック多数。かなり離れた海上で、双方が衝突をギリギリに避けながら、攻防戦にしのぎを削っているようだった。
 中国電力と海上保安庁のマイクが怒鳴るのが風に乗って届いて来た。陸側の田ノ浦には、その日の午前2時、作業員と警備員400名が一斉に押し寄せた。暗い内は海岸テント組が必死で杭を打つ作業を止めた。
 明るくなると、120名の祝島住民と山口県の若者を主とした人達が駆けつけた。砂浜は戦場のように人が入り乱れた。僕は70歳代80歳代のグループに入り、ダイインの大の字となって仰向けに寝転ぶだけだったが、祝島シニアグループは男女共に、打たれようとする杭にしがみついたり、打たれた杭を引き抜いたりの、すざまじい戦いぶりだった。
 
 
 背後の粗末な防波堤の上からハンドマイクで、
「妨害行為は止めてください。」と繰り返す数名の中国電力社員達。
 直ちに大声で言い返す祝島のおばあさん、
「あんたたちこそ、あたしたちの生活妨害しとるじゃない。このヒジキとりの忙しい最中狙って来て、」
 ハンドマイクは決められたフレーズしか繰り返さない。
「もう一次産業では生活出来ませんでしょう。」
 ただちに倍以上が返される。
「わたしらずっと生活してきとるんよ。あんたらよりよっぽど贅沢にしとる。」
 
 
 確かに祝島では、一本釣りしたタイの刺し身が当たり前のように山盛りとなって食卓に出てくる。市場に出すのは生きたままのやつだけ。帰港するまでに死んだタイは、島民の腹に入る。他の魚や段々畑の作物も豊かだ。
 それに強風を防ぐため一つだけに固まった集落。石埋めこんだ家の外壁は火事を防ぐためだというが、その間に人がようやくすれ違える程度に細い道を張り巡りらし、互いに頻繁な行き来をする。これが、有史以来ずっと続いてきた人間関係の当たり前の姿なんだ、と祝島を訪れるたびに安心させられる。
 
 建設側は綿密な作戦を立てて来たようだ。杭打ちを、この200メートルほどの砂浜の両端でして、反対派を分断した。僕たち他所者のシニアグループ10人ほどは、真ん中に空いた、台風の目みたいな無風地帯に取り残された。
 ダイインのまま見上げる防波堤には、警官隊が残るだけだ。ハンドマイクとビデオカメラを持った中国電力社員は両端に移った。ヘルメット姿の警備員がスクラムを組んで囲む杭打ち作業の隙間から入り、杭にしがみついたり、にらみ合いしたり、説得している若者や祝島島民に、同じ放送と撮影を繰返している。あー 受験戦争に勝ち抜いて得た一流企業の社員は感情を全く表わさない。だが、人間としては辛い物があるかも知れない。
 こんな、試験と出世だけに秀でた軍人が、この前の戦争の音頭をとった。常識で考えれば、工業生産力が10倍で鉄や石油を依存していたアメリカに負けるのは当たり前なのに、頭の中は作戦のマニュアルばかり。外交や情報能力もあまりにも貧しかったのに。国民もそのプランに熱中した。戦後は、軍事目的を経済に変更しただけで、同じ狭い価値観のままで突っ走って来た。
 
原発予定地周辺
 喧騒極まりない浜辺の真ん中に残されたシニアグループの一員たる僕の眼前に、小さな湾のただならぬ光景が迫って来た。埋立の目印であるブイを設置しようとする作業船に、10隻以上のシーカヤックが横ずけとなったまま、若者達がしがみついいたり、進路に立ちふさがってオールを操っている。その中には、白髪の老人も一人交っている。彼等を引き離そうと、海上保安庁の高速ゴムボートが辺りを飛びまくり荒波を被せ、ハンドマイクでがなり立てている。昨年彼等は中立を保っていたのに。今年は原発輸出に乗り出した民主党政権と自民党の推進派は断乎とした決断を下したのに違いない。中国電力は原発電力の比率が低い。当然にCO2排出量は比率が多くなる。原発の発電量は大きいから、CO2の部分は少なくなり、更に長い送電線も含めれぱ2000億円以上を投資するから総資産額が増えて来る。その3%が報酬率として自動的に利益として認められる。
 使用済み核燃料までも資産としてカウントされる総括原価方式の主力である原発の建設。あぁ 大手の不動産業、製造業、輸送業、広告業、警備業、修理業、産廃業と、それに投資する銀行業。メディアも政治家も、立地点の地方自治体も受益者だ。
 無限の利益源泉のために中国電力の船に乗った空色ユニフォームにヘルメット姿の社員達は、ハンドマイクで同じフレーズ、妨害するのを止めてください、を繰り返す。そのマイクに、シーカヤック隊が肉声で叫び返している。
 だが、海陸で絶対量の人数と物量で押し寄せる原発推進派は、暴力沙汰を徹底的に避けている。昨年は、同じようにブイを設置しようとした時に、シーカヤック隊の一人が作業員により怪我をさせられ、その瞬間の写真が、グラビア誌月刊DAYS JAPANに掲載されたこともあったからか、作業は一年間ほど中断させられた。今年は、地裁申請中の、埋立妨害した者に一日あたり数百万円の賠償金を課す法案成立を待っているのかも知れない。
 勿論、阻止しようとする派は、一貫して非暴力直接行動のみ。若者達のビデオ班が、数ヶ所で撮影をしているのも心強い。特に、元国体級の陸上選手だったたくましい女性がキャスターとなって、リアルタイムのユーストリームを発信している彼女とカメラマン二人組の機敏な動きは、小気味良いほどだ。
 シニアグループは、ただ真ん中に空いた砂浜で、そこに作業が移転した時に備えて寝転ぶだけだった。見上げる防波堤の向こう側の陸地には、4千年から6千年前の縄文中期から弥生、古墳、古代、平安時代に至るまでの遺物20万点が出土し、組織的な製塩が行なわれ、石器時代から船を使って北九州や四国とも交易していた田ノ浦の遺跡が、発掘調査の後に埋められて保存されている。そんなロマンチックな地場に影響されたのか、僕達都市からのシニアグループは対話を交わす余裕が出来た。
 当初から原発計画に反対している上関町の80歳代後半の老人は、子供の頃の、屋形船のような石炭船がほとんどだった頃から、最初に電灯が灯り、船の修理工場稼動、徴兵生活、戦後の混乱から原発計画に至るまでの長い町と人生の歴史を淡々と話してくれた。同じ80歳代の老人は、田ノ浦手前の見事に耕された手製貯水槽付き段々畑の持ち主で中国電力に土地を売らなかった仙人みたいな農民だ。僕に近い年代の都会人らしき数人は、過去にも運動に関わったことがある。三池、60年安保、ベトナム反戦、68年全学連、水俣、湾岸-イラク-アフガニスタン反戦などと同列に今一番の上関を話した。地震列島の海岸に54機の原発。しかも、北朝鮮には日本と韓国の原発破壊専門のコマンド部隊が存在している。食料自給率といい、少子高齢化に自殺者や身心の病の多発といい、豊かさと安全を謳歌しているかに見えていたこの列島の基盤は、あまりにも脆弱となっている。有史以来、初めて戦争に負けたということは、このことなのか?
 他の年金生活の60歳代70歳代も、僕とも共通する激しい時代の流れと、死を目前として残される者達への思いを話した。このままの状況が進行したら最後に悔いが残る。誰もボケていない。この年頃が人生で一番冴え渡るかのようだ。
 辺りの状況にも関わらず、僕たちの間には静かな情感そして、建設側と阻止する側が膠着状態に陥った時には、両者の間に入り、建設側に向かって切々と訴えた。僕も、かって危機管理について業界で学習したマニュアルにそって、あまりにも危険な原発を安全だと運営当事者が思い込み、民衆を思い込ませ何らかの事故対策も講じていない、これ以上考えられない危険な状態を説明した。(その状況を、たまたまビデオ撮影していた友人の好意で、僕のブログに映像をアップしてある。)夕暮れ時には、数本の杭と数固のブイを設置しただけの作業員は、警備員、警官、海上保安庁員共々引き上げた。
 
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