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オールド・バックパッカー「サワのランダム・ジャーニー」
澤村浩行
抗日運動下の中国で(内陸編)
雲南から四川への列車
 
1 お茶を飲んでアヘン戦争を想う  05年4月
 
 ここは昆民、標高1800m。広い中国の南西端にある山だらけの雲南省の都である。南側の国境には、ミャンマー、ラオス、ヴェトナム、東には中国で最も貧しい貴州省、広西壮族自治区と接している雲南省は台湾と同緯度、年間を通じて暖かい。また谷ごとに異なった27の少数民族が住むというエキゾチックな文化の多様性もある。
 
 観光、農業、鉱業、通商の盛んな雲南省。昆民の中心街にはピカピカの高層ビルが乱立している。そこ以外はゴミゴミした東南アジアの下街そっくりだ。新旧極端な風景が移り変わる街を歩いた。汗だくとなって人と車の群を縫った。昼頃着いたのは新築されたばかりみたいな昆民駅。モダンなガラス張りに入れば、出稼ぎや帰郷組のヤボな風体がひしめいている。この僕も同類だ。
 
 切符売場の電光板を見ると、次の成都行きの「硬臥」が空いている。それは固い寝台車のベッドのことだ。2本のレールに挟まれた人の列に並んだ。中国語の硬臥の「イングオ!」を窓口で怒鳴った。そして「下舗」と紙片に書いて見せた。つまり、3段ベッドの一番下。コンピューター発行の切符を手にして、急ぎ入場口の「エックス線検査機」に荷を通す。飛行場にもあるローラー式の奴だ。これがどんな小さな駅でもある。勿論、青い制服銀ボタンの公安警察官は、ひとりひとりの乗客の顔もチェックしている。
 
 3段ベッドが2つ向かいあっているコンパートメント。通路側は開け放たれて、反対側の窓際に椅子2つが対面している。いつもながら、長屋みたいに人生模様を繰り広げている寝台車輌のひとつひとつのコンパートメントの中身にはワクワクさせられる。指定の下段ベッドに荷を下ろすとテルモスを取り出す。茶葉を入れる。乗車口近くにある給湯器にまた戻る。テルモスに湯を満たせば、移動中のお茶は大丈夫。こんな石炭を火種としたサモワール式の給湯器が、待合室にも旅館の廊下にもすえつけられている。さすが、お茶の国だ。大理市で会った中国人が「・曹ノはヘビースモーカーが一杯いるけど、その割に、ガンの発生率は低いんだ。お茶を良く飲むからね」と言った。
 
 鎌倉時代の禅僧、栄西(臨済宗の開祖)は中国で修業、帰国時に茶を持ち帰った。
「日本人は年とると皮膚が黒く不健康になるのに、中国人の老人はツヤツヤしている。これは茶を飲むからだ」という理由だった。以来日本にも茶が普及した。今僕は、固い黒饅頭みたいに見える雲南省特産プーアール茶にはまっている。カフェイン少なく薬効も優れているという、チベット人愛用のブランドでもある。彼らはこれを煮出し、ヤクの乳と塩を混ぜて摂る。出がらしの葉を食べる者もいる。野菜少ない土地では、貴重はビタミンと繊維質を補給できる。しかも精神を覚醒させる。茶は中国内外で必需品となった。古代の軍馬はほとんどが茶との交換で蒙古、新彊地方から運ばれた。いわく茶馬外交。唐の朝廷は、塩と茶などの専売によってかなりの財源を得ていた。茶は経済戦略品であった。 
 
 産業革命時代のイギリス人も茶の虜となった。労働者にまでティータイムが一般化した。イギリス政府は茶に消費税を課税して財源とした。アメリカ独立のきっかけとなったボストン茶事件は、植民地にも課せられた茶税へのプロテストだった。だが未だアッサムやセイロンで茶樹は栽培されていなかったから、鎖国中の清が唯一開いた南中国の広州で、清政府指定の特殊商人「行商」から大量に買いつけなければならない。行商は大金持となり、今でも彼らの西欧風豪邸が広州に残っている。イギリス側の大幅な入超に洋銀(メキシコ銀貨)が流出し続けた。清国は世界最大の経済大国となった。(1820年の世界GDPの28%余を中国が占めた。イギリス5%余、日本3%余、アメリカ1%余。アンガス・マディソン著、世界経済の成長史1820から1992より)
 
 当時イギリスは貿易赤字を埋めるため、(インドでは手織りの職人の右腕を切り落としてまでイギリスの機械織り綿布を普及させたが)世界的な大国の中国には、インドで栽培した綿花を輸出した。しかし人口も多く勤勉な中国人手織り職人は綿布を大量生産して、更なる稼ぎとした。そこでアヘンに目をつけた。僕が若い頃インドで飲んだ胃薬のシロップにはオピウム(アヘン)5%と記されていたように、昔から中国でもアヘンを鎮痛剤やマラリア特効薬として輸入していた。それを「細く長く生きてられる」と宣伝したらしい。アヘンはまたたく間に一般人ノまで普及した。生活苦を忘れるためと、娯楽が少なかったから、元々快楽主義的傾向のある中国人の嗜好にマッチした。
 
 当時、清となってからほぼ平和な時代が200年近く続き人口も倍増していた。ひとりあたりの分け前は少なくなる。そして例のごとく、王朝と官僚は堕落していた。清から大量の銀が流出し、政治問題となった。つまり銀が少ないと銀貨は高騰する。税金は銀本位だったが、実際の納税は銅銭を使う。その銀対銅銭の換算率が納税者にとって倍にはね上がった。実質的な大増税である。払えない者は逃亡する。多くの流民と不健康な中毒者は社会不安を醸し出す。清はアヘン販売の禁令を出したが、沿海の人民がイギリス人と密貿易をし、内地に転売する秘密結社ェ勢力を伸ばしたために、その取り締まりに清政府は追われた。しかも、産業革命が本格化したイギリスのランカシャー機業の生産する安い綿布には、広東近辺の手織り業は太刀打ちできなくなり、更なる銀が流出した。
 
 全権を託された林則徐は、イギリス商人から2万箱のアヘンを没収、石灰と塩で人口池に溶かし海中に流した。作家陳舜臣はここに中国の近代が始まると言っている。アヘン商人は帰国して議員たちを説きふせた。中には不道徳な商行為を非難する者もいたが、イギリスは遠征軍を送った。「アヘン戦争」である。蒸気船に引かれた軍艦の脇腹には、大砲が何層もの列となってすえられていた。それが一斉に火を吹く。その砲弾の多さに待ち構えていた砦の清兵は茫然自失、清軍は戦わずして破れた。遠征軍が揚子江を逆登り南京に迫ると、清朝は屈服、屈辱的なu南京条約」を結ぶこととなった。1842年のことである。
 
 この時から中国は、5港を開港、治外法権、租界、関税自主権(関税率を自分で決める)の放棄、香港の領土割譲等の不平等な条約による半植民地となった。日本の徳川幕府が開国したのも、アヘン戦争の結果に驚いたからである。長州も薩摩も一戦交えて砲弾の威力に負けたとたんに、開国主義へと転向した。もっとも彼らの唱えた攘夷は、琉球や朝鮮を介した密貿易の利権を守るためであったのだろうが。天下をとるとなったら、当然に堂々と交易ができる。技術と武器の輸入。そして、産業革命と武力、富国強兵が明治維新の目的となった。
 
 
2 年中春の里、雲南に流れた血
 
 寝台車の下段のベッドは、夜10時まで上のベッドの2人も使う長椅子となる。広軌だから通路の向こうの窓際にも座椅子が2つ。これに6人皆が座ると列車がゆっくり発車した。僕は下段の客だからベッドの窓際。前に小さなテーブルもある。だから、値段も上のベッドより少し高い。揺れも少ない下段のベッドの旅は久し振りだ。今年1月に下関からのフェリーで北東部の青島に上陸して以来3ヶ月。行き当たりばったりの旅をしてきたから、予約や指定のない座席だけの「硬臥」車輌で動くことも多かった。そこは自由競争地帯だった。
 
 硬臥車輌で僕は、大きな荷物を背にして椅子を争い合う買出し人や出稼ぎ人の迫力に戦わずして降参、入口近くのトイレ脇に座ったりすることが多かった。それでも、まわりの荷に押しつぶされそうにして夜ウトウトしてたら「もうじき降りるから私の席に座りなさい」と席を譲ってくれる買出し人や若者に出会ったこともある。明らかに僕を日本人と知っていて。テレビや新聞では「抗日戦勝利60周年」の特集を組み、日本の教科書の日中戦争現場での犯罪隠蔽や靖国神社問題を騒ぎ立て、暴動じみた行為も耳にしているというのに。
 
 僕が63才で旅をしているということもあるだろう。儒教の伝統、敬老精神の根は深い。階段を登ろうとすると、自然に荷を運んでくれる人とは何回も出会った。もしかしたら他にも優しくしてくれる理由がある。僕は長年中国に関心を持ち歴史や文化の本を読み続けてきた。今回は1年間ほど現場でじっくり確かめたい、そして日中戦争、太平洋戦争になぜ突入してしまったのか、そしてなぜ今となって国交回復以来最悪の日中関係となったのか、を考えてみたいと思っている。
 
 そんな「理解をしたい」という態度も共感を呼んでいるのかも知れない。中国人は歴史を紙面だけではなくDNAにまで記録して判断の材料とする。哲学、宗教や気功のようなヨガ的な歴史も長い。人物や出来事を洞察する素養は充分にある。若い日本人バックパッカーが日中戦争の歴史を知らなかったために、中国人にひどく怒られたという話をひんぱんに耳にした。中国では歴史教科書の主要部分は日中戦争で占められているという。
 
 向かいの下段ベッドは30代半ばあたりの背広族だったが、コンパートメントに座った時からトロトロ居眠り状態だった。発車してしばらくこらえていたが遂に横になり、昼からベッドに熟睡した。よほど疲れていたのだろう。激烈な中国経済戦線の様相は、僕のように通りすがりの者にとってもしんどい。
 
 つられて僕もゴロンと横になるや眠り込んだらしい。目覚めると午後遅くだった。列車は谷間に沿って北上している。貧しげな針葉樹がまばらに立つ赤い山腹。眼下には茶色に染まった急流。人家も見かけず車道もない。同じコンパートメントの乗客は、通路向こうの椅子に座るひとりの他は、皆ベッドに眠り込んでいる。僕もまだ寝足りない。再び横になってウトウトとした。
 
 実は昆民で一週間ほど泊まったユースホステルの裏道に10軒以上のディスコが連なって夜通しズンズンとした電気音楽が響き渡る上に、その路上では酔っぱらった若者たちがヤケッパチな大声を張り上げたりの大騒動が続き、眠りの浅い夜が続いた。ある夜などは、若い女の罵声と悲鳴に起こされた。窓から見下ろすと、派手な衣装のハイティーンらしき女の子が数人で、ひとりの女の子を血が出るほど殴りつけている。
 
 (エッ!この年中春だと観光客を惹きつけている先住民族地帯の雲南で?)と驚いた僕に、隣のベッドの若い白人が「どうせ覚醒剤の乗りだろう。良くあることだよ」と言った。確かに雲南省は隣接するミャンマーとラオスからの麻薬ルートに当たっている。ミャンマーの国境の町では、ヘロイン中毒者らしいビルマ人の出稼ぎ人風が、亡霊のようにフラフラしているのを見た。ユースホステルの2段ベッドの上のスペイン人は「俺も踊る」と夜通しディスコを渡り歩き、昼はグーグー眠っている。だが、僕は朝昼の散歩の方が楽しい年齢だ。結局激動中の雲南に⊥ー不足とさせられていたのだった。
 
 雲南は、漢や三国時代の蜀、南北朝時代の東普に一部併合されながらも部族国家として独立の気風を保ち、唐の時代には南詔国、宋の時代には大理国を建て勢い盛んだった。完全に中国領となったのはモンゴルの元によって征服されてからだ。元はその後ビルマに侵攻し、雲南のタイ族は南下してタイに建国した。明は雲南を元より引き継ぎ漢人を大量移民させた。以来、中国文明圏に属したが、清となっても独立のためのゲリラ活動を続けたほど勇猛な血が流れている。更には日中戦争下では、連合軍が首都南京を追われ、雲南の北の四川省重慶に疎開した国民党政権に空と陸から補給を続けた「ビルマ・ルート」の中継地でもあった。
 
 日本軍は100万人の兵員を中国戦線に派遣したが、既に戦線は延び切って都市の点とその間の線を維持することと無差別爆撃の手段しかなかった。残された道は海南島と南部港湾地帯を占領、北部仏印(北ベトナム)に進駐し、フランス領経由の補給路を断つこと。北部仏印進駐は1940年、オランダ・フランスがドイツに敗北し、イギリスも続くだろうと、そのアジアの植民地をドイツ進駐の前に狙う、火事場泥棒的な「南進政策」への転換でもあった。アメリカは直ちに反撃し、日本が石油と共に依存をしていた屑鉄の対日輸出禁止の処置をとった。以来、41年フ「日伊独三国同盟」締結、南京の日本軍傀儡「王兆銘政権」承認と、日本が次々と踏み出すと、アメリカは更に硬化した。
 
 当時の松岡外相は41年「日ソ中立条約」を結び日伊独とソ連の新ブロックの圧力でアメリカを圏外に置き、国民党軍を窒息させようとしたが、アメリカは中国からの日本軍撤退を要求し、日本軍が「南部仏印(南ベトナム)にまで進駐」すると、日本が需要の70%を依存していた石油の対日全面禁輸で応えた。新ブロックの構想も、大戦直前の39年に結ばれた「独ソ不可侵条約」を破ったドイツが41年ソ連を攻撃したことから夢と消えた。残るは中国からの撤兵か、アメリカとの開戦のみ。もはや面子と権力に固まっていた日本軍官僚組織。世界恐慌以来の不景気と先進植民地主義国家のブロック経済化から脱出したい企業と大衆。それにあおられたメディア。結果は明確な作戦計画も、陸海軍の協調もなし、暗号を解読されていたのさえ気づかずに、10倍の国力を持つアメリカを攻撃したのである。それまで宣戦布告をしていなかった国民党政府は連合国の一員として対日独伊に宣戦、戦場は一気に拡大した。
 
 この雲南にもアメリカ人スティルウェルが国民党軍の参謀として赴任し補給作戦を指揮した。ビルマ北部の鉄道終着駅ラシオまでの1,100キロに及ぶ山岳道路「ビルマ・ルート」を、原始的な工具のみを使う30万人の工夫を動員、完成させていた。
 
 南方へ兵を割かなければならなかった日本軍は兵糧攻めしか打つ手はあらず、42年ラシオを攻撃、悪戦苦闘の末に占領した。その戦いに機関銃弾運びの二等兵として従軍した作家古川高麗夫が「ラシオ戦記」に詳述しているが、充分戦備を整えた国民党軍の砲火と豪雨の中のザンゴウ戦は読むだけでもヘドが出そうな地獄だった。続いて日本軍は雲南省南部にまで進出した。ビルマ・ルートを失った連合軍は以降、カルカッタより空路を使って補給を続けた。アメリカ人義勇兵フライイング・タイガーズが操縦した輸送機は、途中の豪雨に犠牲となることも多かった。中国人はこの時の恩を忘れてはいない、と昆民大学に留学している多くのアメリカ人学生のひとりが言っていたのを思い出す。
 
 
3 寝台車のコンパートメント
 
 気がつくと前の下段ベッドのビジネスマン風が起きていた。僕も起き、二人して自分の茶を飲んだ。丸顔に縁なし眼鏡、身体も丸く将来は伝統的な大人(タイジン)に成長しそうな男はさり気なく「昔、このあたりはジャングルだったんですが、18世紀に炭焼きのため木を切り尽くしてしまいました。この茶色の濁った川の水もそのせいでしょう。今は皆後悔していますよ」と正確な英語で言った。
 
 それから彼は33才で、上海の電話会社営業マン、結婚して一人娘がいる、と自己紹介をした。妻は外資系の会社に勤め、英語は彼より出来るという。都市の中国人は個人主義が発達していて、初対面でも気が合いそうで英語が解れば遠慮なく話しかけてくる。特に経済発展めざましい南中国海岸都市の中産階級は。僕も長年憧れていた中国を旅していると自己紹介をした。それからは話が途切れることがなかった。
 
 「あの山の向こうには竹のジャングルがうっそうとしていて、パンダも生息しているんですよ」とか「この街は電球の生産では中国一なんです」「三国史の劉備が諸葛孔明の助言に従い四川省に蜀の国を築きました。孔明がインドとの交易ルートを求めて雲南に遠征軍を送った時、反抗した部族の長を7回捕らえて7回許したのは、このあたりだったと思います。結局その先の部族も手に負えず交易ルートはつながりませんでした。蜀は経済的に先細りとなり亡び、元の時代にようやくビルマ遠征に成功して開通したのです」と、通過する地点について次々と説明してくれる。
 
 「良く知っているんですね」。
「営業で全国を飛び回るんですが、宴会で土地の人のお国自慢を聞いていると興味が湧いてきて、歴史や地理や文化を調べたり、その場所を訪れています。休暇には山登り。去年はヒマラヤのひとつに登頂しました」。
 
 それがよほど嬉しかったらしい。ニコニコ笑って定期入れから、氷の山頂で完全装備の仲間と共に撮った写真を見せた。続いてアタッシュケースから、詳しい中国地図が出てくる。同じコンパートメントの他の客は内陸の人らしい。質実で固い表情のまま僕達二人のやりとりを見守っているだけである。
 
 「この地形図で見ると、ヒマラヤまでは東西に山脈が走っています。ウクライナやヨーロッパのアルプスとピレネーも東西。これは太古の時代に、南極近くにあったゴンドワナ大陸が北に漂い、北極近くにあったユーラシア大陸にぶつかり、その間の海底を盛り上げたからです。でも四川と雲南あたりからの山脈は南北に走っています。ヒマラヤを押し上げた力が東に方向を転換したからでしょう。まだその勢いは続いていますから、この地帯から黄河平原を囲む山岳地帯では、定期的に大地震が起こります。
 
 中国は漢の時代に地震計を発明しました。玉をくわえた竜の像が東西南北を向いている地震計が王宮の奥にすえつけられていました。天災地変は王朝の存続に関わる大事だったからです。500キロメートル離れた土地で地震があってもその玉が竜の像の口から落ち、その転び方で震源地と震度を計ったのです。それ以来中国では統計をとり続け、ほとんどの地震は予知できるようになりました」。
 
 「そう言えば、昆民大学の外人留学生がテレビ嫌いでニュースを見てなかったら、中国人の友人が電話をかけてきました。(今すぐ外に出て広場に集まりなさい、地震が来るとニュースで言ってるよ)とのことで外に出ると、予知した時間ピッタシに大きな揺れが来た、と言っていました」と僕も思い出した。
 
 まったく33才の青年にしてこの話題の豊かさだ。多分世界に通じる教養の基本は、歴史観と自然観を持つことではないだろうか。それが人間を一番影響する。ただし彼の話には共産主義政権となってからの政治社会の問題は一切含まれていない。現在進行中のジャパン・バッシングの話もまったく無し。
 
 谷間が暗くなった。夕飯の注文取りが来た。彼が注文した。僕もつられて注文した。これまでの旅ではあたりの人の流れに合わせて車内食の注文をしたことがなかった。そして運ばれてきたセット・メニューを食べていた途中で、同じコンパートメントの他の客は全員即席ラーメンをすすっているのに気がついた。彼らは大人しく無骨な内陸人である。セット・メニューは10元。インスタント・ラーメンは1元。互いに見て見ぬふりをしながらも、彼らの無念さは伝わってくる。
 
 寝台料金を払えるのだから彼らは内陸でも中産階級に属するのだろう。より下層の者はイングゾウ(硬座)と呼ばれる固い椅子席で昼夜座りっ放し。値が安いので座れないほど混雑するし、担げる限りの荷がつまっている。彼らも毎食インスタントラーメンで過ごす。列車内でも、衣食住の差は歴然としている。
 
 食後、僕の後ろめたそうな態度を察したかのように上海ビジネスマンは声をひそめた。
「ここはもう四川省に入っています。中心に大きな盆地があり、揚子江が流れています。気候も温暖ですから元来は二毛作もできる豊かな省です。黄河文明と同時代に古代文明が発生しているし、中国を統一した秦の国力は、この盆地に開拓民を送り込んで得られました。核家族を強制して余剰人口を作り領土と富を増やしたのです。当時、灌漑の天才が、揚子江が盆地に下りる河口に中州を作り、その勢いを弱め、盆地一帯に水を配分したこともあります。その次には漢がこの地で力を蓄え黄河中原に進出しました。劉邦は戦闘には弱かったのですが、四川から補給を続けたスタッフがいたのです。
 
 唐の時代には、この絹の綿織は世界的に有名で、アラブ人商人までが買いつけに来たほどです。ですから唐の玄宗皇帝が内乱で成安の都を追われた時にも、ここに逃げて来ました。でも、中国の歴史で繰り返されたことが起こったのです。豊かで平和な時代が続くと人口が増えて、ひとりあたりは貧しくなる。今、海岸地方の都市で、料理場や建築現場で働く下層労働者の多くは四川人です。たぶん、チベットに入植した中国人の半分も」。
 
 夜10時の消灯時間となった。寝台車の全員は横にならなければならない。夜を徹して、各車輌の入口附近に配属された車掌が通路に目を光らせている。車掌は昼間は駅に到着する前に車内とトイレを清掃しゴミ袋をプラットホームに出す。おかげで寝台車では以前のゴミだらけの車内風景とゴミの窓からのポイ捨ての風景は見られなくなった。そして車掌は、たぶん駅に排泄物を落とさないために、駅の手前でトイレのドアーもロックする。中国の安い飯屋は質の悪い油を使うから、腹下しをすることも多く、車内トイレを使うタイミングには常に気をめぐらせなければならない。
 
 中国入国当初は、このどこでも押しつけられる管理体制にウンザリしたこともあった。だが、3ヶ月経った今は、長い年月、半植民地状態が続き、ようやく統一しても内部の抗争に犠牲を払わざるを得なかったこの巨大な国を治めるには、しばらくはこれくらいの一方的な押しつけが必要なのかも知れないと思うようになってきた。そして日本人も、あからさまではなくとも、国の政策によって一生を管理されているではないか、とも思うようになった。0才保育のプログラムから始まり、受験勉強と労働の忙しさ、そして考える暇も与えないテレビや刹那的な享楽の洪水に飲み込まれざるを得ないのではないかと。
 
 日本が戦争に突っ走ったこと、戦争に負けたことのツケ払いとは、そういうことなのだと。

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