乱蘭通信No73掲載文
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つれづれなるままに 

徳田ガン



 東京デイズニーシーとは、新しいデイズニーランドのことであるが、シーとはCではなくSEAであり海であることを先日知った。仕事関係にて数回なかに入った。巨大な岩の山から白い煙がのぼり、地中海に似たその港の建造物はあえてヨゴシがかけられ古びていた。港には船あり、ゴンドラあり、なかかからカンツオーネも聞こえる。

 20世紀初頭の南欧やアメリカの港など7つの寄港地に分けられているという。なかにはモノレールが走り、洞窟の地下を駆け抜けるトロッコバスなどがある。乗り物もみなアニメの夢の世界である。レストランはそれぞれのお国がらを表し、それぞれ民族衣装もさかんである。私がいったのは、開催2ヶ月前だったがすでにオープンしているかのようであった。かなりデズニー側の注文が厳しく業者は大変らしい。なかに入るチェックがきびしいのをまずは通過して感じたことは、若い女子の塗装家がめだった。建造物だけでなくあらゆるオブジェにも本物と同じ色合い汚れ具合を要求するようである。日本の塗装家は皆きれいに塗ることには当然得意とするところであろう。しかし映画の美術かなにかの塗装家ならいざしらず、適度に汚して古く見せる専門家は日本にはあまりいないようだ。そこで美大生がかりだされたのか、ペンキだらけのGパンに、白い歯を見せて職人と混じっている姿にほほえましさを感じた。私達は消火器の箱を納めにいった。この消化器の箱も、西部劇に出てくるような板塀のごみ箱のような代物である。古い腕のよい職人はわざと曲げて切ったり、あえて削り面をあえてささくれだったよにすることには抵抗があったようだ。もっぱら腕のないアルバイトがノミで板面を傷つけ、ガスバナーで焦がして鉄のブラシでこすった。その箱を納めにいった。場所によっては、よく見ると、蜘蛛の巣まで造られていた。私が驚いたのは、木工や鉄、セメントという材質にそっくりであるが、大半がFRPという繊維を補強材としたプラスチックであった。巨大なる岩石は、まるで岩石であるが、叩くとコンコンという中が空洞のおとがした。ベンチも電車も船もほとんどがこのFRP(Fiber Reinforced Plastic)であった。シリコンなどで凹型と凸型を造り、ガラス繊維や炭素繊維のポリエステル系樹脂を流し込んで固まれば出来あがりらしい。あるトロッコは1000万円もするという。確か電車の車両は本体約1000万円ぐらいときいている。豪華客船は、本物の船より予算オーバーらしい。新聞によれば、直営ホテルも含めて投資額は3380億円という。しかしオープン後の経済効果は6380億円という。このグロバリゼーションの世界経済が生み出した夢の楽園。

 私がここで思うことは、この夢の楽園では、製造にかかわった人間の形跡が抹消されていることである。機会化のなかでも建物や特に小道具、大道具は、職人の出来具合があり、把握の痕跡があった。しかしFRPの石油作品には、手指の痕跡はない。ものを把握する行為は、動物との一線を画した。人は木の棒を持って木の実をとり、石を握って物を砕いた。大工さんの道具は手の把握が主体であった。扉は、ドアーノブを把握して押し開かれ、閉じられた。料理は鍋の取っ手を握って暖められた。絵描きは筆を握って絵を描いた。これらは、みな把握の痕跡であった。

 手指はもうひとつの脳髄であるといわれる。手指のその記憶は私の空間創造の重要なる要素であった。40年前、お棺の父の頭が傾いていたために、末っ子の私が死んだ父の頭を動かした。あのしっとりとした重さの感触。その手指の感触を捏造して処女リサイタル死の舞踏序章をおこなった。以来20数年経ってから、やっと手指が動きだしているように思う。

 タバコを中指と人差し指に挟み口で吸い込む。コップを握ってビールを飲み干す。かけない原稿を丸めて握りしめる。赤子は乳を鷲掴みしして頬ばる。なんでもコード化する昨今だが、そららの把握の強度、触れる接点の荷重は、コード化できない。製品は、全てバーコードで示される時代であるが、その鮮度、その歯ごたえ、臭いまで、バーコード化されていないので、あのスーパーはいいかげんであるとはいわない。店やに入ると、マニュアルを暗唱した店員に私は、驚く。マニュアルにないものを注文すると、自分では判断しないでかならず一度撤退する。出なおして、また一から行う。こそ泥に入って、顔が子供に見られたら、その曖昧なる答えは百も二百もあるはずだ。顔がわれたから殺す。殺人をした。だったら変質者の仕業でと、女性の下着をばら撒く。これはまさに曖昧な中間地点がこの空間には人生にはないと生活してきたヒトのボタン殺人である。皮肉なことに彼は凶器の包丁を握って殺人を犯した。

 先日、把握にこだわっているスイスの美術家にあるフェステイバルで出会った。23個のドアーハンドルをある大学に設置して、日常のジェステャーを通してコミュニケーションをはかっている。感覚としての視覚は具体的なオブジェによって接触の感覚と直面するという。etc。

 そのY氏と、パフォーマンス・アートをリードしてきた批評家でプロフェッサーでもあるH氏や美術家であるK氏と、コラボライテイブ・パフォーマンスを行う。但し、それぞれのメデイアを持ち込んで重ねあわせるのではなく、それぞれの特性にたちかえる作業ということになっているが…・・。

 夏のそら、空(クウ)を握って、空虚なり、今年の夏も過ぎて行くのか、、、、、、、、、、、、。

 

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