乱蘭通信No76掲載文
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嗚呼!除夜舞考(その2)

徳田ガン



 オープンリールのテープが、過去の音を膨らませてゆく。年々歳々、時は加速を増し、逆に私の体は膨らむ。テープがゆっくりと一回転すると、残りは僅か、カタカタと音をたてて残り僅かであることを知らせる。武藤氏からの原稿依頼で、このふた月の時間の速さに驚く。
  2月8日、キッドアイラックホールが、移転するために、最後の催し、窪島誠一郎「薄日の道」展にて、久し振りにソロを60分踊った。踊った直後に、仕事や家の雑事にかまけたせいか、体調を崩した。ならば逆療法と、比較的に暖かい日だったが、何枚も重ね着をして、付近の丘山をジョギング。しかしはじめからほとんど足を引き摺るていたらく。一周約1キロのコースを3周する。汗は出たが、ぐったりと頭が重い。血圧が上がり、咽喉がはれた。逆療法は、逆効果であった。

  その日、変な夢を見た。白い鍾乳洞の風景の中で蒲団を敷いて寝ている。その白さが眩しくて、今、夢を見ていると思った。蒲団の中は、暖かいが周囲の空気は冷たいようだ。何故か息苦しい。徐々に、その夢の中で呼吸困難になってゆく。今、夢ではなくて蒲団の上に寝ているから、大丈夫だと自分に言い聞かせるのだが、呼吸は苦しくなってゆく。悪い夢は壊すにかぎる。冷たい麦茶を飲んでトイレに行った。トイレの脇の廊下にいる愛犬コロと目が合う。少しコロとじゃれあって気分転換すると、眠れた。



 1977年12月31日
  大晦目だというのに、夏の台風のような雨だった。それも冷たい冬の嵐だった。夜になっても雨はやまなかった。それでも横浜へ向かった。容赦なく雨が電車の窓を打つ。私達は、その日横浜県民ホール前にて、パフォーマンスまがいをするつもりだった。31日の除夜に、何かを繋ぐ行為にかられたのかもしれない。それは、「銀河への手紙」と題された。ホールは地面より大分高い所にあった。長いレンガの階段が風情よくのびていた。おまけに水銀灯が、煌々と輝いていたのだ。私達は、元町の丘にあるKのアトリエに集まっていた。不思議なことにこの雨は絶対に止むと全員が確信していたことである。
  案の定、夜半に雨はあがった。私達は、衣装をきたまま街を徒歩にて移動した。そこへ到着したものの、事体は一変していた。暮れは、官公庁市役所が休日のため、水銀灯は消えていた。薄暗い街灯はあるのだが、かんじんなる階段は、ほとんど暗い。急遽、蝋燭を燈してみたが、時折襲う突風で消える。数十メートルの白い長い紙を敷くと、これまた激しい風でよれよれになる。今思うと、無計画なるパフォーマンスの失敗である。うちひしがれていると、おもちやの太鼓の音がする。「港へ繰り出そうよ。」とKが言う。Kのたたくおもちやの太鼓を先頭に山下公園埠頭にはいった。雨あがりの港は、静かだった。時折、汽笛が鳴り響く。

  即興舞踏などというのは、おこがましいが、太鼓のリズムとともに戯れて踊った。やがて人垣ができた。私達が薄い衣装で踊っているのをみて、上半身裸になって胸を叩きながら参入してくる人もいた。雨上がりの港は、静かで美しかった。さほど寒くもなく、また、汽笛がなった。私達は、ここで毎年踊ろうと約束する。



 1978年12月31日、横浜港埠頭山下公園氷川丸前、夜11時頃集まる。
   除夜舞は、ジョヤマイと呼ばれるようになったが、当初はジャブとした。ジョヤブ=ジャブ=jabに掛けていた。大晦日より新年にかけて、港の海の夜空より、宇宙に向かって拳を突き上げる。チラシはM君がプリントゴッコで格安にて造ってくれた。現在ではデザイン事務所をかまえているが、当時は渋谷のライブハウスで料理を造っていた。まずはしきりのために輪になった。T先生率いる新体道の人達は、7~8名おり、皆空手着であった。先生はいつもの白袴である。正装まがいのU氏は、渡仏帰り、その後、渡仏した舞踏家のI氏は、白手袋白い稽古着であった。私は赤毛髪にやはり白い稽古着。白い衣装が多いのは照明器材のない薄暗闇の港にて白を着れば少しは目立つかもという配慮であった。

  参加者はそれに画家のKと妻のJ、ソプラノサックスのS氏であった。大胆杜撰なる打ち合わせは終わった。港は広いし、時間はたっぷりある。それぞれがそれぞれの場所でそれぞれの時間でやろう、合図は0時、港に碇泊している船の汽笛であった。吹きすさぶ寒風ではなく、ひんやりとした空気にやはり頬は、冷たかった。

  やがて汽笛がなった。その数は、増しかなりの音になった。景気のいい年は、いっぱい鳴るらしい。やがて音は、きれぎれになり沈黙した。その間、S氏のアルトサックスが鳴っていた。わたしのからだは、からになって夜空に吸い込まれたようだ。額には、汗がにじんでいた。舞踏家のI氏は、少し離れたところにて同じ動きのパターンを繰り返していた。T先生達は、やがて見ている人々を抱き込み、今でいうワークショップをはじめだした。Jは、瞑想のような静かな舞であった。寒さにたえきれなかったというU氏の動きは、ストイックなマイムダンスだった。除夜舞にはこりごりしたといっていた彼も、今年久方振りに参加を依頼してきた。

  これを第1回除夜舞とする。これは体よくいえば、即興舞踏であり、パフォーマンスであった。寒風ふきすさぶ深夜の港にて、約束もなく、もちろんステージも照明もないところで、勝手にはじめる。若さと馬鹿さゆえめ無謀無知なる行為。わざわざ足を運んでくれた人は賛否両論だった。ニコニコとオメデトウと近寄ってくるもの、なんでこんなことをするのかと真剣に問いかける人もいた。あの頃の気持ちとしては、定番の紅白歌合戦と、炬燵にみかんと年越しそばから抜け出して、心の隅でピカピカしているやつを、しんどいところで晒せば、何かに出会える思っていた。この年、私は処女舞踏リサイタルをおこなった。これはその時の写真である。

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