乱蘭通信No75掲載文
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嗚呼!除夜舞考 


徳田ガン



除夜舞24周年も無事終了した。

年末のクリスマスの飾り付けで、6尺の脚立から落下。かろうじて梁に捕まろうとしたが、手が滑り、メガネが吹っ飛び、腰をうつ。しばらくは、茫然自失。大丈夫ですか?と問われれば、大丈夫と答えている。その後、高を括っていたが数日経ってから、起き掛けに腰のつっぱりや痛みがはじまった。歩けば治ると1日数キロ歩いたりしてみた。じっとしているのが、一番よくない。もしかすると、かなり悪いのかもしれない。もともと腰は、弱く、よくギックリをやったり、かがみ、しゃがみの姿勢には弱かった。仕事先で、古い飲み友達と一杯やることになった。


案の定電車で寝たらしい。ホームを歩いているときに、道具入れの重いリュックを背負っていないことに気がつく。さんざんと探したがその日は諦めた方がよいと言われ、次の日の遺失物センターに問い合わせることになる。一抹の希望空しく、関連各沿線探したが発見できず。リュックの中身はなんですか?と聞かれる度に、大道具の工具類一式、充電ドリル、自分用生ゴムの腰ベル、、、、と何回も報告した。ほとんどここ10年來、私が握ったり掴んだりして営為を費やしたきた物である。喪失。土地家財を無くすこと。肉親の喪失。慣れ親しんだ手荷物一つの喪失の悲哀がそうさせたのか。

喪失の悲哀に老いが重なり命をおとした阪神大震災の人々を思った。年の瀬で出費の多い時節、例年になく風が冷たい。師走の空風が街を吹きつけると、せわしなく足取を速めた少年時代に比べて、随分と静かになったものだが、、、、。江戸の昔、大晦日は一年の総決算日であった。町人大衆にあって経済的極限の日でもあったという。そんなせわしない年末に、除夜舞なるものを24年間続けている。


そもそも除夜舞は、桜木町の駅でKに邂逅しことによる。Kと私は、新宿のF堂のボーイ仲間であった。そこは、アバンギャルドの芸術家の集う場であったが、その頃ベトナム帰りのヒッピーやフウテンの溜まり場になっていた。重い鉄枠のガラスをあけると、高い吹き抜けがあり、壁には大きな前衛絵画が架けられていた。バッハのフーガやパッフェルベルのカノンが、鳴り響いていたものである。オーナーはクラシック好きで、昔はNHKさんが借りにきていたというのもまんざら嘘ではないらしい。吹き抜けでない厨房の上が2階席になっていた。2階はほとんどラリのフウテン、ヨウパン、ベトナム帰りがたむろしていた。


客も変わっていたが、そこで働く連中もかわっていた。T大学留年3年フラメンコギターでスペインに行くといっていた学生運動家。三島由起夫論をひっさげて丸山明弘の付き人する美男子。一日中モーツアルトを聞いていたいというクラシック狂。W大学生映画監督実際はプロ麻雀士。自衛隊あがりのフウテン。それぞれ個性があるということにかけては、客に負けていなかった。


そんなつわもののなかで、Kはいつも静かであった。彼は画家であったせいか、あまり議論には加わらなかった。皆より少し若いということもあり、ひかえめであった。彼の師が、30代のアル中で急死した話をきいた。絵などめったに描かない私が、彼に誘われるままに写生にいったりした。


そのF堂は、閉鎖され、Kとも会っていなかった。そんなKとばったり出会ったのである。話をすると、彼は、横浜銀馬車通りの画廊で個展を開くという。その頃私は、舞踏なるものを始めており、よかったらそこで踊らないかという話になった。


私はその頃演劇の友達に誘われて、舞踏社VAVに顔をだしていた。主催者はM氏で、私よりも10年ほど先輩であった。私のことを「ガンちゃん、ガンちやん」とまるで弟のようにかわいがってくれた。そこでM・レリス作「闘牛鑑」に舞踏家としてデビュウした。


音楽、小杉武久とタジマハール楽団。美術・衣装、和田エミ。踊った連中は、先生クラスであった。私は、壊れた椅子が20個ぐらい重ねられた造型のなかで踊った。踊っている間、頭や胸、腕が勝手に動いていった。口からは激しいユダレ。そのなかでは私に徹底的に基礎訓練をさせてからやらせたほうがよいという人もいたが、M師はバラバラのところがよいとした。私のバラバラ踊りの始まりであった。

1975年暮、Kの個展、横浜銀馬車通りの今野アートサロンにて踊った。Kのアトリエは、元町のクリフサイドホテルを横に見て、坂をあがりきった所にあった。それは、将校クラスの外人ハウスである。いまでは信じられない話であるが、そこは、空き家であり、ボヤにあった。そこでKが「危険でしょうから、管理者としてそこに住まわせてくれ」と直談判した。そこのオーナーが、一目で彼を気に入り、アトリエとして無料で貸してくれた。


その頃、私は演劇をやっていた。1974年、漂流部隊を結成、「一千三百二十五日酔いの朝焼け」。1976年、素晴らしき紳士淑女たちを結成、「硝子の欲望」。パフォーマンスという言葉はなかったが、そのようなことをやり始めた年でもあった。


1976年、その山手アトリエにて「FREE TALKING ‘76」という集団展を開く。私達は、そこで動として「藪神楽」を提出した。その後フランスのノルマンデイーに舞踏場をひらいたI。私の妻で、そのころマイムや演劇をやっていたJ子。俳優のSと私。いまでいう即興舞踏とパフォーマンスである。そのときに来年は、横浜港、山下公園埠頭でやろうという話がもちあがった。除夜舞が誕生する2年前であった。                

(次号に続く)

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