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 除夜舞 COMMENTS 



除夜舞2009


  今年もまた除夜舞が繰り広げられた。32回目を数えるというのに私にとっては初めての経験となる。従来の枠にとらわれない様々なパフォーマーが、それぞれ更に分類不可能なパフォーマンスを繰り広げた。パフォーマンスの語源は古期フランス語、ラテン語と遡り、「その結果形成されたもの」を意味する。そこには時間の経過とそのプロセス、活動、体験が含まれるのだが、最も重要なのは「要素」である。それぞれが持つ「要素」をどのように活動し、経験として結実したのか。そのようなことを、除夜舞を見て考えた。公演時間は各20分程である。


  山口昭二(創作語り歌) 
  弾き語りというよりも唄を感じさせる。解説を交えながらアコースティック・ギターを弾き、歌った。《蛙がころころ鳴いていた》は中原中也の『桑名の駅』が元になっているという。低い声で語りかけるように歌う。《月の浜辺》は高音で歌い、朗読を交えた。《雪の宵》は本来声楽家であった山口が作曲した。ギターの通低音とアルペジオが印象的だ。《日本の民謡》では「佐渡おけさ」「秋田民謡ドンパン節」「千葉銚子の大漁節」を続けた。時折ギターのボディを叩き、高音の単音が旋律を奏でる。艶のある低い声で上品に歌った。声楽家という要素を楽器にも乗り移らせたのだった。



  菅原賢一(一人芝居) 
  スーツと仮面と帽子が付けられたマネキンが舞台奥に展示されている。A・アルトーの《神の裁きと決別するために》のテープが流れる。呆然とした表情で椅子に座り、右手で胸元からライターを出して火を点ける。「ハッピバステー・ツーユー」。語ると火を消す。「ハッピバスデー・ツーミー」。間隔をあけて五回繰り返し、ライターを捨てる。二つ目のライターを胸元から取り出し、「ハッピバスデー・ツーミー」を13回繰り返す。それは優しく大きく低く、擦れるように、悲しく、確実に、騒がしく、呻く様な声と様々であった。自己という要素を声、マネキン、アルトーに分岐させた。



  千葉瑠依子(身体表現) 
  闇の中で喉元にライトを当て、脚立を潜り風船を膨らませては萎める。その呼吸は速い/遅い/大きい/小さいとバリエーションを持つ。オルゴール、メトロノームとギター、ドラムとボーカル、ノイズと音も次々に変化する。その場で回り、腰をついたまま肘を手繰らせ、背を床につき、手足を上げる。立ち上がり脚立を昇っていく。首と膝で体を支え、抜けると上まで昇りつめる。降りて脚立と距離をとり、足裏を固定し左手を横に、右手で頬を叩き、音を発生させる。再び脚立に昇ると暗転する。踊りのフォルムという要素を動かない脚立に投影し、更に音を発することによって物質感を封じ込めた。



  鬼沢順子(お話アート) 
  闇の中で歌い始め、薄い光が投じられると「こんばんは」と客席に語りかける。自己紹介と「先生の背広」を語り、「花」のポージングをする。足踏みをし、「エリザベート」に変身する。「雪が空から降ってくるのか、私達が空に舞い上がっていくのか。ここは何処ですか?貴方は誰ですか?」活舌のよい語りをしながら、舞台は再び闇に覆われる。語りかけることを要素としながらも、マイムを織り込んでいく。重要なのは、語ることと語られる内容を区別している点だ。「はじめに言葉ありき」。闇から言葉が生まれる。その生まれた言葉を発言し、自らの体で翻訳することに、この公演の意義がある。



  大串孝二(アートパフォーマンス)渡辺アルト(インスタレーション)
  吉本裕美子(ギター) 
  大串と渡辺がセッティング中、吉本はエレクトリック・ギターを掻き鳴らす。1×1.5m程の鉄板が吊るされ、渡辺による穴が開いた支持体に描かれた抽象絵画が、床に展開する。大串は木製のスティックで鉄板や壁を叩き、ペットボトルから取り出した小型の錘を床にばら撒く。その音を吉本はマイクで拾い、変調させる。大串は天井に上り、梁を叩き続ける。吉本は絶え間なくギターを鳴らす。大串は針金を通じて鉄板をコントロールする。下りると拳で鉄板を叩く。青とオレンジ、対角線の一筋の光、オレンジと白のライトとなっても大串が止まることはなかった。吉本の聴覚、渡辺の視覚という要素を大串は体で剥離し、逆転した。実践することが感覚となる。ここにはアンガージュマンの思想が見え隠れする。



  章太郎(ドラム) 
  スティックによるスネアのロールから始まり、一つ打ちを基本とした8ビートを刻む。リムを強く叩き、鋭利な音を形成する。ハイハットを用いず、シンプルなセットを組んでいる。スネアのスナップを外し、ツインペダルによる深いバスドラの響きとスネアをリンクさせる。マレットに持ち替え、その深い音を更に拡張していく。赤いライトがドラムセットを包み、静かなる炎を連想させる。再びスティックを持ち、今度はカウベルを叩き続ける。止むことのない演奏は、今も鳴り響いている。視覚を剥奪し、一つ一つの音の粒が持つ要素を前面に出した。身体が渦巻く公演の中、それもまた一つの変容である。



  若尾伊佐子(ダンス) 
  立ち尽くし、僅かに折った肘が体の脇から逸れて行く。膝から足の裏へ、肘から肩が開いていく。その所作によって、背が僅かに反ったとしても。後方に流れる指先と手首が、限りなく遠い距離を生み出している。踵と足の指、踝と膝、膝と腰。それらは広大に拡張する人体を現しているのではない。何かに導かれることも何かを先導することもなく、胎動する。限りない余白。力学を無視する彫刻。貴重な生命の水が複数に流れる。軽薄な皮膚を脱ぎ捨て肉体を誇示することなく、複雑な内面の襞を拾い上げる。人は眠りに落ちる要素があっても、生命の活動を止める事はできない。光が落ちても、若尾は舞い続ける。



  岩名雅記(舞踏) 
  全身を包む臙脂の衣装によって、顔と手の動きしか判別できないにも関わらず、微細な動きが伝わってくるのは何故だろうか。指に糸が巻き付けられている。膝を軽く曲げ、両手を漂わせるように前で構える。上からのスポットにより、引き裂かれた「体」=要素が集まってくる。それは「時間」=要素も同様である。光が凝固し、鐘となって粉々に砕け散る。その破片が集合し、溶解という過程を経ずに一つになるイメージが沸いてくる。息吹と声と発音に、どのような差異があるのだろうか。爪先で立つ。掲げた両手の右が落ちる。指先が空間に鏤められていく。歩み出す。続ける。掌が揺れる。



  ヒグマ春夫(映像・美術) 
  闇の中で床にB4サイズ程のスポットが当てられる。壁面に白い五つ程のグリッドが素早く展開する。床にB4サイズの白い紙を縦に並べていく。グリッドは一つになる。ヒグマは紙の短辺を針金でまとめ、幾つも床に立てて置く。それは小さなスクリーンだ。雨のような映像はこのスクリーンを通り過ぎる。戻っていくのか。壁面には青い矩形が連なり回転する。モノトーンの世界が持続する。ヒグマは一枚の紙を上部に掲げ、見詰め、顔に近づけ、紙を乗せ、背を反る。ヒグマに映像が映りこむ。アメイジング・グレースが流れる。映像に駆け巡るモノクロを認識できない。映像という素材は影と一体化した。



  徳田ガン(舞踏)章太郎(ドラム) 
  青とグレーのショールが形成する帽子は、黒いワンピースを着る徳田の表情を隠す。右手を動機に左手を広げる。ブラシがスネアをなぞると両腕を後方に流して左肘を折る。顔を上げたまま歩を進める。横へ、前へ。後方へ。バスドラムが力強く入る。痙攣するかの如き歩みだ。それは歓喜でもあり、祝祭でもある。下を向き、両手を上げていく。あがり切ると共に上を向き、目を大きく開く。ドラムの強弱に合わせて徳田は舞う。左手を上げ、右膝をつくが直ぐに立ち、舞い続ける。カウントダウンが始まる。徳田は舞踏という現象の要素を出来事に変換した。



  新年が始まった。徳田は出演者、来客者のダンサーを導き、共に踊る。山口が歌詞カードを居る者達に配布し、皆で《ソーラン節》を合唱する。喜びは祭りだ。祝いは終わることを知らない。夜が深まるごとに、歓喜と祝祭は続いていくのであった。

宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

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