─ 2011年 ─

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7月の庭劇場

「 食 事 の 報 告 」

7月2日(土)~10日(日)

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  いにしえの書によれば、天上に住む天女もわれわれ同様に、やがては衰えるらしい。天女の五衰と言うそうですが、兆候として、その一は「頭上の華鬘たちまち萎える」、その二は「天衣に塵や垢がつく」、その三は「わきの下に汗が流れる」、その四は「両目がまたたきをし」、その五は「今までの住居を楽しまなくなる」。どれもこれも我が身に覚えのある項目ですが、わたしはその五が一等恐ろしく感じます。天女にとって住居と存在は同一と読めるからです。

  理論的な図式は出せませんが、庭で、首を吊り、重力の棒のように地面に着地したとき。その周辺の気配をいま妄想するなら。ビッグバンで飛び散ったガスの先端が、大きな力で引っ張られている有り様が、やわらかな稲妻のよう頭上で閃いていた。  ついでに低能の大口をたたきますが。

  われわれの生の知覚は、地球上から眺める認識だけで納得し得ているわけではないでしょう。毎日とは謂わずもがなですが、屋根なし、雨ふり、客なしの庭で、したがって楽しみ薄い首つりと着地の行為を繰り返していると、妄想というアンテナが雨後の竹のように伸びて、空間に漂い、ところどころに位置を定めだします。

  いずくから哄笑が聞こえてくる気がする。わたしの細胞は宇宙のどこまでも伸びてゆくビッグバンのガスの動きをキャチして止まない。ガスの中で生と死はキッチリ同居し、全く同じ活力で密着している。なぜか笑われても恥ずかしくならない。それは重力を棒の如く貫かれた身体が、哄笑こそあの宇宙を膨張するガスの先端であり、勢いの実体であり、地球の重力と深く照応する

  さて、庭の行為はもとより作品ではありません。しかし庭をやっているうちは、生の顕界の泡も湧きます。次第に死の霊界の霧も所望します。愛着もでてきます。
  わたしという細胞群がこぞって云うに、生と死を分けたり隔てたりするな。同じもだ、切断するな。
  かように翻訳している、庭の昨今なのです。

                       首くくり栲象

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