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庭劇場「能書き集」
2009年



ラブレター

10月18日(日)~28日(水)


  先日ひとりの息子が死んだ。57歳だった。死因は病死と報道されている。
  息子は衆議院議員だったが、先の選挙で落選し、その直後の死であった。息子の父親もかっては衆議院議員、小さいながら派閥の長で、いちど総裁選に立ち惨敗した。その直後、すべてを取り仕切っていた秘書に辞意を告げられ、激しい確執の果てに、自殺した。58歳。政治的な理由といわれている。
  以後、息子は父親の地盤を継ぎ当選を重ねたが、さきの総選挙で惨敗し、比例区でも元秘書に当選を阻まれた。
  彼の死を聞くに及んた父親の元秘書であった議員は「こんなことになるとわかっていればもっと話をするのだった」というような意味でいい、ハンカチで瞼の辺りをぬぐった。含蓄のある言葉と仕草。

  人間はある程度に歳を取れば、こんなことになると、わかる、頭脳を持ってくる。いや、それを「知らない」と言える頭脳こそを、喪ってゆく。
  生存にとって、死は跳躍であって、産まれてきたように死を生によって受諾することは希望であろうが成しがたい。何故なら死は、生存の自力の過剰と繋がっているからだ。
  しかし、また、過剰はどこかで平安と照応しているのではなかろうか。あるいはこの二つはひとつで同質なもの、ただ、呼び名の違いだけではないだろうか。
  過剰がまず天に宿る。(すると平安も天に宿っている)
  次に地に降り注ぐ。地上に芽生えるのは過剰か平安か、われわれの呼び名の違いが証明している。

話を含蓄のある元秘書の言葉にもどします。「こんなことになるとわかっていれば…」と。むろん。 わかってはいない。わかっているのは、他者の死ではなく、生存の過剰を重ねる側の、行方にある。
  では、平安は。 あるだろう。呼び名を違えて、息子に。




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