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12 月の庭劇場
『 再び ニューヨークへの手紙 』

12月18日(日)~21日(水)
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 『Yさん、Yさんと同名のフラメンコの長嶺ヤス子さんの踊りを数日前に観ました。

  山手線の五反田駅に近い大きなキャパ数の劇場です。長嶺ヤス子さんはフラメンコの衣装や靴やカスタネットや鳴り物のギターや歌声や、可笑しな謂ですがフラメンコ・ダンスに負けてはいません、日本人・長嶺ヤス子の自在な踊り、千パーセントの日本人のフラメンコ・ダンスを踊っていました。そこにはスペイン人のフラメンコ魂と日本人、長嶺ヤス子の血の激突があった筈です。

  Yさんはニューヨーク在住30年、自らも踊り、振り付け家でもあります。二年まえ平家の壇之浦の戦いを題材にして「タイラータイラー」を日本舞踊の踊り手とアメリカのダンサーのコラボレイションで欧州ツアーを行いましたね。ことしはニューヨークのコンテンポラリーダンス界で重要な劇場の専属振り付け師に就任されました。エスカレーターを逆送で生きるようなニューヨークです、民族の坩堝での振り付けの仕事は、多民族のダンサーが納得できる法則性が必須でしょう。また法則性があったとしても、英語という合衆国の血液の国語の基盤はあったとしても、民族の血が深く潜行する底では長嶺ヤス子さんの場合と同様の激突が個々のダンサーに見え隠れしているのではないでしょうか。
  かって日本人の日本での発見された舞踏がサンフランシスコやニューヨークに出現し、一時期アメリカのダンス界に刺激を与えた。しかし風土を離れた身体は新たな土地に易々とは発育はしない。といいますのは舞踏は土方巽がモダンダンスをやっていたから産まれたのではなく、風土の中で流れる血の呪縛が蓄積された底で発芽された、底には日本人の様々な歴史のマインドが横たわっています、このマインドと土方巽の身体の接触が舞踏の基盤であった。
  ひとはパンのみに生きずにあらず神の言葉で生きると、国土草木ことごとく仏性だと、天のアラーにすべての運命を委ね五体を空と融け合う大地に砂漠に投げ出すと。

  わたしはそのいずれも信ずる不逞な輩ですが、それは身体が頭脳より大気に直接触れている現場主義的な体質を優先しているからです、たとえば舞台に入る寸前、ダンサーは悪魔に魂を売り渡し事にあたらんとし、神に深い自前の祈りを捧げて前途に灯りを見んと欲するでしょう。その行為は望む成果を得たいと願う動機からだけではなく、舞台では瞬時に受け瞬時に消えてゆく光陰の結晶が生じていることを感知しているからではないでしょうか。
  宇宙空間に超高速で廻っている地球を真裸にした状態です。その速度を支えるにはどうしたらよいか、どうしたらよいか解らなくとも、日々の修練にふくまれていた確信が欲しいのです。舞台の出来映えは、日本人的にいえば天を仰いで諦めるしかない、だが身体にいたってはたったいちにちしか地上に住めないかのごとく姿勢をとる。突拍子もなくいいますが「人ななぜ殺されるのか」と庭で吊られてそれなりの時間が経過しますと漠然とこの問が脳裏に発生するのです。
  これは意味深長です、軽んじられない問です、この問はわたしの眼に舞台で一瞬一瞬、ダンサーの背後で結晶し、輝き瞬く間に消滅している。いつ死ぬか不明を知った頭脳には地上はいちにちしかいきられない呪縛の檻にいる、そこに宗教の閃きがあり、閃きに導かれた行動がある、なぜ人は殺されるのかの問もある、物騒な日常的な出来事はそのひとに罪があるからではないのは勿論ですが、言えば死ななければわれわれは地上にいちにちしか住めない、そうであるからして内容はともかく一歳の死があり百歳の死がある。
  そういった意味で舞台にあがる寸前のダンサーは、人間を越えた生命体にその身を託そうとする動機も窺える、なにもダンサーだけではが、その力を支え応援するのは風土に抵触している身体か明晰な判断を配慮する脳細胞なのか、わたしは身体に加勢しての二元論を選択していますが、この問が最終的には脳細胞にかかるにせよ過程の修羅は身体が担っていると思う、わたしが舞台でダンサーを見るのはこの修羅です、肉の特権は輝き腐る、骨はカラカラになりて尖って地面につき立つ、衣装はキラキラと輝いてその時その時を賞賛する。

  Yさんもご承知のようにわたしはダンスをするものではありません。行為という身体をたよりに道を歩く者です。しかしダンス界にはYさんをはじめ多くの友人がおります。みな20年30年40年中には50年とダンスに携わっています。またダンスの世界的な傾向は知りませんが、ニューヨークで、世界の心臓のごとく日々脈拍している場所で奮闘しているYさんの友人であることはわたしの誇りであり、見知らないニューヨークという土地との繋がりにもなっています。今回は無謀を承知で日本の東京の西の郊外の小さな庭で、ニューヨークの坩堝とはかけ離れた静寂で、人類に受け継がれた一滴を身体の中の事象をポケットの手鏡のように持ち出して、今年最後の庭公演の能書きといたしました。

  来年、Yさんが日本への里帰りをなされた折、お逢いできるのを愉しみにしております。』

   首くくり栲象

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