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老いたる放浪詩人の冬物語
澤村浩行(サワ)


 2008年12月23日。
 天皇誕生日の祝日、午前10時頃、信州伊那谷から南アルプス赤岳へと登る途中の大鹿村最後の集落、標高1000m。いつものように朝食を運んで降りてきたボブ。85歳の放浪の詩人サカキナナオが、独居していた家前のベランダ脇地面に、仰向けとなって息絶えているのを発見。大声で、やはり彼の世話をしてきた近所のTとMを呼ぶ。役所に電話報告、現状維持せよとの指令。後、検死。死亡推定時刻、同日午前4時。死因、その朝急激に襲った寒波による心臓停止。下半身露出したままだったことから、たぶんベランダの携帯トイレで用足そうとした時に卒倒。脇の地面に後頭部陥没した凹みが残っていた。その頭上には、細いモミジの幹に枯れ果てた枝葉。足、泥まみれだったという。血色良い死顔を、火葬された26日まで保っていた。死の前日、「また明日」ボブと言い交わした時には別状なかった。大鹿村の老人の典型的な死は、冬初の突然の冷え込みによる。ボブひとりのみが遺体の脇にて過ごした通夜。少年時代から40年間の時の流れ。
 
 翌12月24日。
 「ナナオ死す」のニュースは駆け巡る。国内だけではなく、大鹿住民チェコ人イエルカの知らせに、アメリカ人詩人ゲーリーがコメント寄せる。私はその午後、三百号以上を出版し続けた、月刊「人間家族」主幹大築の葬式参列ため下車した伊豆急下田駅で、迎えに来たKの門口一番に知らされた。大鹿村移住前の数年間は大築がナナオを下田でケアーした。「あのように年老いてもいいんだってホッとさせられました。」とKは言う。朝から酒を飲む、昼下田の街、温泉に通うのに会うとグァハッハッと笑う。だが大築には、ナナオのわがままが耐え難くなる。お次はボブが引き受けた。
 トランプのババ抜き。ヘヨカ(先住民的な師)は自然の中で運動を続けている仲間達に渡った。そして過酷な大鹿村の冬に耐えられない場合、次の受け手は老人ホームしか見当つかなかった。彼はその結末を忌み嫌っていた。
 
 翌12月25日。
 冬至に亡くなった大築の通夜後の葬式後の火葬場。肺ガンにやつれ切ってはいたが死の数日前一時帰宅、風なくうららかな下田近郊の自宅周辺にて、娘3人と妻、そしてオスの愛犬と共に幸せな一日を過ごしたとのこと。その直前、彼も長年月刊「人間家族」を通じて訴え続けてきた「浜岡原発を東海地震の前に止めよう」の成果が一部出た。浜岡原発1号2号機を政府が廃炉に決定。彼は少し微笑んだ。がまだ3、4、5号機は稼働中、6号機は建設中である。東海地震は30年以内に80%の確率で起こる。静岡県御前崎の西、掛川の南にある浜岡町はその推定震源地であると政府が公表した。大鹿村からの参列者3名。彼らの車に同乗、渋滞気味の高速プラス山道8時間の後大鹿村。ナナオの遺体と4畳半の電灯下で会う。赤々と笑っているがごとし。以前京都北方原生林脇、やまうと祭現場主任イッポンが「死ぬ時はどう感じると思いますか?」と尋ねた。「あーセイセイしたと思うだろう」と答えた通りの朗らかさ。
 
 鹿児島県下の子沢山な紺屋の末息子。すぐ上の姉とすぐ下の妹が徹底して彼の面倒を見た。姉が死亡した時、痛切な詩を書いている。妹は今だ夫と共に健在。短歌をたしなみ、最後に世話した大鹿村のボブとミドリに見事な筆跡文章にて「わがまま放題の兄を」との礼状を送っている。小学校時代は人力車通学をした。当時の紺屋は盛況。染める衣類を手に旅して来て泊まり込む人も多し。その地域には秘密結社の念仏講結社があり、構成員の間ではセックスも共有していた、との話しをチラリ耳にしたことがある。近くの川も森も自然のままのユートピア。ところが紺屋は化学染料につぶされる。小卒後に役所の給仕。そして上京、戦前ながら左翼系人の多かった日本青年会館勤務。
 18才、真珠湾攻撃の報、勤務先の金沢にて。徴兵、海が好きで海軍志望。ヨットやグライダーの訓練を受ける。レーダー部隊選択。九州南部特攻基地近くの地下レーダー基地詰め。飛び立つや沖の米軍空母より迎え撃つグラマン、次々と落とされる特効機影。レーダーで見続ける無駄死。スピードと機能に差があり過ぎた。そして長崎原爆投下に向かったB29の機影をも。終戦の勅語、隊のラジオで。初め何か解からなかったがその内「こいつ何言ってやがるんだ」と怒った。除隊、食う為に帰郷、サツマイモや麦など生産。2年ほど後「何が起こっているか」と上京。列車内食えぬ者達、そこでオニギリ食う者。互いのひどい表情。上野の地下道暮らし。毎日誰かが餓死する中で「オイ、スイトン食うか」という人など現れ、どうやら食いつなげたという。そして、何故か突然に中央公論、文芸春秋と並ぶ改造社で社長秘書勤務。
 当時の壮々たる作家と出逢う。その多くは戦争協力者だった。改造社破産。工場勤務やドヤ街へ。その間おごってくれた人物、飲み屋の代金払えず、しばし二人して刑務所。東北の山や南の島々歩き回ったり、洞窟暮らしをする。自然破壊をも見る。
 以上、彼と40年間、偶然に旅の道で逢った折伝えてくれた物語の断片と、今年9月京都やまうと祭、彼のライバル、盟友ポン(70才)司会のナナオを囲むシンポジュウムより。
 
 私達50才代60才代は、ナナオがヒッピーコミューンをやり始めた60年代後半からの付き合いである。私も当時、南西諸島諏訪え瀬島や、八ヶ岳山麓の富士見高原、東京国分寺の巨大アパートなど、部族と称するコミューンを訪れ、彼とも散歩や対話をした。時にはマッチョ、時にはポーズが気になったが、旅好きそして、自然と人間のための運動に乗る点では共通していた。70年代より私はユーラシア大陸、ナナオはアメリカ大陸のビート詩運動や山歩きへと、離別した。
 再会したのは90年代初頭の六ヶ所村。長良川ウォークやピースウォークなど良く歩く人だった。居候先を次々と変え100%世話となる人生。各所でトラブルも起こしたが、人と人とを繋げてもいた。タスマニア島の原生林保護ツアーでも一緒だった。一遍上人のように自身の家を長らく持たなかった本物の旅人だった。そして詩の朗読を日本に定着させた。
 
 2008年12月25日 夜。
 ナナオ独居していた家の大広間2つとダルマストーブの部屋は、全国からの訪問客で満杯となった。村の女衆の料理が次々と運ばれて、持ち込まれた酒ビンが林立し乾されては転がった。村の山師2人が冬の夜中に駐車係を続け、ストーブにはマキがガンガンくべられ、歌あり詩ありケンカあり大笑いあり、そして鼻汁と涙の混ざった大泣きがあった。ナナオの遺言「葬式いらず、墓いらず。詩はコマーシャルに使わない。」の通りの夜を徹した大騒ぎ。やはり年配者が目立った。彼らの半端ではない感情表現に、若者たちが目を見張り、翌朝後片づけをした。
 
 翌12月26日 お昼前。
 遺体に多くの車従い、飯田市の火葬場へと向かう。前日から突然舞い降りた群衆を見ていたその南アルプス最奥の部落に住む3人の子供のひとり、中学生ほどの女の子が言った。「葬式にあんなに多く人が来るのに、何で生きている時来なかったの?」と。その言葉に震撼、深く反省させられる。もしも神、あるいは真理が存在するなら、それは子供の目を通して見ている。面子やこだわり、そして縄張りと仕切り。慌ただしい日常生活と弱者への無関心。私もその、特に日本の現代社会の隅々まで蔓延している病魔に犯されていた。
 私が数年間、中国と中央アジアの道を辿ってきた末に止まった、京都の06年9月、やまうと祭でナナオとまたまた再会した時だった。当初亡霊さながらに見えた彼が、一カ月も皆とワイワイやっている内に得意のトンチ問答も復活し見違えるほど元気となった。聞けば下田の大築の下に暮らしていた時、「死後戻る砂漠のような場所」が気に入って頻繁に訪れた。ある夕刻、帰宅途中踏んだ大石が揺らぎ5メートルほどの崖から転落、足を骨折全身血まみれ。ようやく下手の低い崖からはい登り助けられて入院。その事故の日ナナオを、やまうと祭主催者で、訪米中ナナオにギンスバークなどを紹介され、後に京大西部講堂で彼らの詩の朗読会を実行した租午が訪れた。ナナオとの対話にピンときた彼は、退院後京都の自宅に引き取り、隣宅の精神科医に検査して貰った。結果は痴呆症の進行。それが長期の祭で甦る。後には大鹿村のボブの下、足裏壺療法を受け続けた結果、健常者としか思えない生まれ変わりをした。07年、08年もやまうと祭で再会。例の、論理の意外性や相手の執着振りを揶揄する次元から抜け、しみじみとした素直さを見せるようになった。そこで私は油断をしてしまった。
 
 同じ12月26日午後2時。
 もうナナオは甦れない。火葬場のバーナー室だ。三カ月前大鹿村を訪れ同じ屋根の下で数日暮らした時を思い出す。元来、掃除、洗濯、料理など一切の家事はゼロに近かった人は、私と映像仲間の森田の差し出す食事をうまそうに食った。下の世話はちゃんと自分でしていた。昼は絶景の庭に半裸の日向ぼっこ。
 秋の入り口、栗が拾い放題だった。夜となればマキの炎を楽しんでいた。そして酒も適度に付き合った。だがもはや歩くのは一段上のボブの家までのみ。そこさえも一度などはロープ張られていないほぼ平地で転び、三段下の台地に仰向けとなったまま声を張り上げもしなかったことがあったという。幸いにも夏だった。家を出れば前の庭の他は急登急降の道がほとんどの土地である。そして夜起きると広い家屋内やら庭をさ迷った。自分がどこに居るのか判らない。そして朝は前夜見た夢の話しをした。それは「そうやって逮捕されてまた手錠の冷たい感触、残っているよ」といったリアルな内容だった。が、数日すると「人と住むと夢を見なくなった」と言った。
 誰かが同じ屋根の下で住まなければいけない。料理して一緒に食事をし、彼の愛するマキの炎を起こさなければ。そして彼の行動圏にはロープを張り渡さなければ。だが66才の私も55才の森田も余りにも軟弱でマキもホームセンターで買い求めるぐらいがオチの情けなさ。ロープ張りもクイを打ち込むことさえ出来ない。以前最も急登りの階段にロープを張った飯田の末吉は、既にスキー場でバイト中。大鹿村全体では全国的にも新住民の割合が多いのだが、さて誰にと思い巡らしても当てが着かなかった。ナナオを訪ねる若い新住民は皆無に等しかった。
 そこでナナオに提案した。アメリカの文学財団から贈られた金で、彼と自然の中で生活したい若者を公募選択する。月数万円の謝礼と別途食材費を提供で雇う。その若者が彼の人間的時代的体験をじっくりとまとめあげたら尚更に良い、と。ナナオは老人ホームにさえ入らなければ「それはお世話になりますねー」だった。ボブに話しを持ち込んだ。大鹿村の真冬、零下15度の現実を知らされた。そして山慣れぬ新住民が集落に入って数々のトラブルを起こしたことも。
 かってコミューンを営んだ南の島も家族で手一杯。それが彼の注いだ情熱の結末だった。ナナオの住民登録のある青梅市の老人ホームで働く仲間が、いつでもそこで受け入れる用意をしているし、大鹿村で同様の仕事をしている者達も考慮中とのことだった。
 そのまま時が流れて寒くなった。東京で心配して、井之頭公園脇にある森田の家の一室を空けたが、私達は再び大鹿村に行きロープや隙間風やマキの火をチェックして、必要ならば東京で避寒して貰うまで踏み込まなかった。大鹿村最奥の集落に住む数人に遠慮して任せ切ってしまったのである。彼らとて忙しい日常の合間に世話していたというのに。離れて住むもの同士が互いに相談しあうチームワークは生じなかった。
 
 ナナオは自分の子供を育てなかった。が、井戸を掘った人だった。コミュニティー未だ成らず。
(完)
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