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メモランダム1966
1 ミスター・ビートニク
澤村浩行

その一 


 ようやく止まったトラックの荷台からリュックサックごと俺達はずり降りた。誰かがとたんに身体のあちこちをパタパタとはたくや、他の者もパタパタとやったり顔を擦ったりした。パタパタとやるたびに小麦粉の白い埃が立ち上った。しょぼくれた旅人のしょぼくれたオーラ。行き止まりの車道前方には、中世風都市の黒い塊。数十本の五重の塔がシルエットとなって突き出た空の高みにはまだ青い空が広がっている。
 
 丸二日間というもの、俺達はそのオンボロトラックに山盛りとされた小麦粉袋の山にへばりついたまま、ヒマラヤ山脈の前衛を越えてきた。海面下数メートルのインド、ネパール国境テライ平原から、すざまじい蛇行を繰り返しながら千数百メートルの峠に登り詰めた。エンジンを冷やすための仮眠を数時間した後、脱力したみたいに下り続けて着地したのがこの標高800メートルの盆地である。荷台で歯をガチガチさせながら耐えていた、世界の屋根の寒風は消えた。地上の土を全てかき集めて押し上げたみたいなヒマラヤ山塊のどまん中に広い平地が横たわり、その中心にはぶ厚い都市が居座っている。夕餉の火が立ち登る頃である。群なして住む人の気配が湧き上っている。全身を未だに小麦粉にまぶされたまま、俺達七人の男達は街に向かって歩き始めた。
 
 1966年は暮れなんとしていた。俺達の一部はその年の夏、イスタンブールで最も安いグルハネホテルでも特別に安い屋上素泊まりをしながら、西へ戻ろうか東に向かおうかと、その日暮しをしていた頃からの顔見知りだった。皆が文無しに近かったし、東への道はかろうじて、そちらから戻ってくる者からの話でしか判らなかった。それでも俺達は再び一人ひとりとなってボスポラス海峡を渡ったのだ。そして途中でまた誰かと会ったり別れたりしてきたのが、折り返し点のカトマンズで偶然みんなが一緒となったという訳だった。
 
 世界もてんやわんやの、見通しが立たない時代だった。乾季の夏のグルハネホテルの屋上では、中国の紅衛兵の若者が、一千万人北京に集結し毛沢東の祝福を受けたとのニュースに涌いていた。と共に、誰かが持ち込んだアメリカのグラビア雑誌ライフには、LSDと称する幻覚剤を使ったアーティストの作品がデカデカと載っていた。当時アメリカでは、その前年に始めたベトナム戦の拡大、北爆に抗議する若者がドラッグに勢いづけられ、反戦運動に突っ走り始めていた。公民権運動は黒人に始めて投票権を与えざるを得ないまで盛り上がった。ヨーロッパでは怒れる若者達が街を埋め、ドラッグとロックが互いの間にあった貴族対平民の壁をも打ち破っていた。世界中の若者達が互いに連絡を取りあわなくとも、その数と新しい時代感覚を武器として、何時ピカドンが地上で連続して爆発し人類滅亡するかも知れないという、冷戦構造やらその代理戦争、個の崩壊を隠蔽するかのような管理社会と中産階級の冷たさ、見る見る無惨に壊されて行く自然の姿に憤り、抗議の声を上げていた。
 たぶん、その時の俺達は、文明の行く方を旅に占おうとしていたのだと思う。その為には、歴史を逆登って検証したかったのかも知れない。俺もその2年ほど前、フランス郵船でアフリカに直行したのだった。1ドル360円では、1964年の東京オリンピックで運転手として猛烈に働いても、片道の船賃にも足らなかった。外国の財団に論文を出し、運良く当たった奨学金で東アフリカの大学に短期留学できたのだがその後は、お決まりの運転手兼ガイド、時には、見本市やら通関やら外国船の甲板員の仕事を渡り歩き、そのツテで北アフリカでも同様の生活を続けた。そんな仕事漬けの後、北から南までのヨーロッパを50ccのバイクで旅をした。ようやくイスタンブールに到着し、グルハネホテルの屋上で、ひとりとなって社会から抜け出た同じような仲間に出会った時にはホッとした。彼らのモットーは「We don't work. We just live.」-俺達は働かない。ただ生きるだけ。-だった。そこで、俺も求職を諦め、行き当たりバッタリの、偶然に身を任せるせることとなったのだ。当時のヨーロッパで日本人の得られる仕事は、日本料理店の皿洗いのみだったこともある。
 俺は、日本人の影の薄い所の方が希少価値が生じて、面白いサバイバルが出来ることを、それまでの経験で知っていた。そして日本を飛び出したのが、短い人生を通じて感じてきた、人間の営みへの反発と、同時に人間の営みの多様な素晴らしさへの憧れの両極が原動力となっていたのではないかと、気付いたのだ。まずベイルートに列車。それから金は本当に底を突き、ヒッチハイクで食い繋いだ。あれから半年、その日その時をやりくりしてここまで辿り着いた。
 
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