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メモランダム1966
その二 


 黒い山波のてっぺんが赤く反射した。北方には氷の峰が連なっている。氷が夕日を投げ返す。濃い藍色に染まった空にもサーモンピンクの光線が走る。闇は既に盆地の鍋底に滑り込み、街並も存在を消している。灯りがポツリポツリと点き始めたが、それは電灯ではない。赤っぽい裸のケロシン・ランプである。それが闇に生きる何者かが舌を出しているように、チラチラと俺の神経にまとわりつく。道が狭まると、俺達は絶えることない人の群に紛れ込んで歩いていた。背が低い背広姿の男が多い。腰まで覆う前合わせのシャツに腰をふくらませたズボン下風。頭には短い鳥帽子をチョコンと載せている。
 たまの女は、白いショールを羽負った黒っぽいサリー姿である。顔の表情を見極められない暗さだが、人と街の匂いだけは嗅ぎ取っている。イスタンブール以来お馴染みの、香辛料と穀物、野菜肉類に、汗と小便がまぶされたやつだ。脳の芯にツンと来るのは、日当たりの悪い裏道のレンガにこびり着いたカビと、高地の樹皮を素材とした線香か。それがこの街の特徴のようだ。売り子の声が一斉に湧く、夕飯前のバザールが先にある。何段にも積み上げられた石段の上に五重の塔が聳えている。そのあたりから街燈がポツリポツリと立ち、滑らかな石畳の道が喧騒に向かって開いていた。もう互いの顔形も確かめらる電気時代の明るさの中に居る。
 
 だが、俺達の廻りを魚の群が回遊するみたいに歩く土地人は、誰一人として俺達に反応しない。同じ道を歩きながら、異次元の壁で隔てられているみたいに、互いは存在を認識していないかのようである。
 これまで通ったどの国でも、異邦人の姿を目ざとく捕らえてチェックしてくる人種がいた。警官、ヤクザ、乞食、地主、暇人、学生、遊び人、宗教者、商人、好奇心旺盛なまったくの普通の土地人等が群集の中から飛び出してきた。例えばアフリカでは「ジャンボー!」と大きく振り下ろされた手が握手してくる。アラブなら、旅人には慈悲深くとのコーランの教えのままに「アッサラーマ アレイコム」だ。個人主義と白人優越感で覆われているヨーロッパでさえも、チラッと触れ合う機会を拾いあげれば、ストレートに心が開いて来た。インドときたら、道を歩けば数百の視線が全身に張り着き、徐々に細胞の内側や心のヒダの間にまで忍び寄ってくる。それから「ナマステ ジー」「あんたどこから来たんかね。どこへ行くのかね。」に始まって、職業、学歴、家族構成、つまるところカーストを見極めるためのマンダラ問答が一巡する。互いのやり取りの間に、土地人は外界の風に当たり、旅人は土地の波動に染まる。
 陸伝えに流れた文明やら民族の興亡の歴史の中で、旅人がその流れの兆し、言わばウィルスのような役目を果たしていることを、彼らは身をもって知っている。そんな触れ合いの間に、お茶やスナックの御馳走となり、無料で泊まれる巡礼宿に案内されたり、時には居候先やささやかな密輸品の売り先にまで手引きされることもあった。俺達にとって、土地人とのコミュニケーションがサバイバルの要なのである。だがカトマンズには、その気配がまったくない。
 
 俺達は7人。全員が男。異邦人の上に、その日暮らしで地を這ずり廻ってきた臭いやしぶとさをプンプンとさせている。この盆地の中だけをグルグルと回遊している人種にとっては、縄張りも無くさ迷う獣の一群みたいに目立つはずなのだが、誰として一瞥さえしないのである。そして俺達にとって、カトマンズの人間は、空気が固まったほどの実感しかない。
 
 「オイオイ、俺達は存在しているのかよー?」
脇を行くゴッツイ巨体が呻いた。元アメリカンフットボールの選手だったというカナダ人のビルである。アラブやインドの街角なら、並外れた彼の巨体をしげしげと眺める土地人は必ずいたものだった。背の低いネパール人の間では更に目立っているはずなのに、誰も彼に関心を払わない。
 「人生、これ幻なのさ」石器時代の洞穴から返ったみたいな声の主は、ごつい岩が肉体と化したとしか思えない、彼の相棒のハンツである。西ドイツで炭鉱夫をしていたという、普段はまったく無口な男だ。この二人には何度か世話になった。
 
 当時、イスタンブールから東に向かった文無し同然の旅人が最初に目指すのは、レバノン、イラクという親西欧的な趣のある国々をヒッチで食いつなぐことだった。それから先のクウェートの病院で血を売ると一寸した資本となった。しかも自由港が近くにあり、腕時計が格安で仕入れられる。当時の腕時計は輸入規制をしている中東、インドまで運べば貴重な利益生んでくれた。
 そのお定まりの病院と市場コースを行く内に、既に2年間インドとトルコの間をそのようにして行き来していたオランダ人のヨーと知り合った。俺は兄貴みたいな旅の先輩を求めていたし、彼は東洋人の若者に関心を持った。俺達はヒッチを組んでイラクのバスラに戻った。ところが国境はコレラが発生したからと閉鎖中だった。仕方なく、チグリス・ユーフラテス河の岸辺でテントを張って、ただシンドバットの時代以来そこを航海している帆船、ダウが愁々と行く様を眺めるだけの日々を過ごしていた。
 その時、ビルとハンツも隣に住み着いたのだった。図体がでかい彼等は連日近くの農村まで遠征し、デイツを運ぶ仕事を請け負った。帰りには賃金代わりに得た大量のデイツの分け前を、キャンプの俺達にも分けてくれた。再びアフガニスタン国境で出逢った時には、タフなアフガン人と石の砲丸投げを競って勝つ度に、食糧や大麻樹脂、ハシッシを俺達の分まで稼得してくれたのだった。だから、俺とヨーがネパール入国した最初の町ヒタウラで、一日中ヒッチを試みても「金が無けりゃ歩け」とすげない運転手ばかりなのにウンザリとして巡礼の宿の床でふて腐っていた時に、やはり同じ結果でそこに舞い込んだ二人にまた会った時には、運命的なものを感じたのだった。翌日トラックの荷台を団体割引で交渉した。
 彼らの持ち金が足らず、丁度俺達はデリーで売った時計の金があったので図合してやったのだ。そのトラックの荷台には既に、やはりどこかで会ったことのある三人の旅人がへばり着いていた。こんなに多くの旅人が一緒になるのはイスタンブール以来だった。
 
 「飢えるかトンボ返りをするかだな」ストリート・ミュージシックで食ってきたというアンディーが、肩から下げたギターのケースを不安気に揺り動かしている。
 俺とヨーはインドからトランジスター・ラジオの部品を運び込んでいる。クウェートのフリー・マーケットで仕入れた腕時計の残りをインドのブラック・マーケットで売った時に、そこの親父が薦めてくれたネパール用の商品だ。ところがこの一国の首都の中心地であるはずの街角には、これまで通ってきた平原の街には必ずラウド・スピーカーから鳴り響いていた、アラブのやるせない恋歌や開けっ放しで恋を讃えるインド映画の主題歌のオンパレードは、消えている。
 あの騒々しさに慣れた耳には、沈黙しているのに等しい街だ。たぶんトランジスター・ラジオの部品は売れにくいだろう。つまり、わずかな街灯の他には、電気文明が存在しないのである。一寸前別れたトラックの運転手が呟いた「この街では、王様と大臣しか自動車を持っていない」の通り、どの道も百パーセント歩行者天国である。
 
 「Let's see what happen」ヨーの口癖の(さてどうなることやら)が出た。風化したメタル・フレームの眼鏡が引き締まって見える。かってジャーナリストをしていたというインテリは「たぶん鎖国が長過ぎて、自己完結したままなのだろう」とのコメントをした。彼だけが年長の30才前後でアラブ、インドの旅も2年間続けているからか普段は沈着だが、カトマンズは初めてだ。その手応えの無さには戸惑っているようである。
 
 「Going Globe Restaurant ?」再び街灯の途絶えた暗い道で初めて土地の男が話しかけて来た。ブロークンながら英語である。そうだ「カトマンズのグローブ・レストランで会おうぜ」がイスタンブールから旅立つ者が言い残す捨て台詞の定番だった。それはガイドブックのない時代の数少ない旅人が溜まるという、チベット人難民経営の飯屋である。
 「ヘー、この地の果てでガイドかよ」ビルがアメフト流のダイナミックな身ごなしでその声の発生源に飛んでいた。
 
 目を凝らさなければチリが貯まったとしか思えない男だった。荒れた長髪と無精髭をボロ市で頬かぶりし、肩には汚れ切った毛布を羽負っている。街灯も絶えた通りだし、人ごみが埃を立てているから年令の当てもつかない。だが(どうせ俺達同類だろう)との親しげな眼光だけがトロリと漏れている。
 「Me Ganja Man」ガンジャ・マン、と男は律義に自己紹介をするや、手にした何かを差し出した。一昔前の日本で売られていた納豆そっくりの砲弾型したワラの束である。それを一寸割って中身を見せた。ツンとしたお馴染みの芳香が走った。それはガンジャ、大麻草。それも選び抜かれた雌ばかりのセンサラミである。俺達は確かに同類だった。
 
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