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「 山口と福島をつなぐ旅 」 その二
 
 翌朝早く起床。泊まったライブハウスの床は、椅子を取り払った一昔の映画館だから広く、そこに50人位の寝袋姿が寝転んでいる。一昨日も、1954年にグアムとハワイの間にあるマーシャル諸島、ビキニ環礁で被曝した第五福龍丸の母港、焼津の若者達が毎年3月1日から20日まで開催する平和文化祭会場の床泊まりだった。あの被曝事件時、僕は、小学校5年生だった。人生体験は無くとも、純粋に真実を掴む年ごろである。福島第一原発事故は当時の記憶を甦らせた。
 
 魚を食うな、雨に濡れるな、のパニック状況を僕は覚えている。そして特に母親達が反核兵器の運動に立ち上がった、それは最終戦争の恐怖ばかりではない。南太平洋からのマグロばかりか、日本列島全体が放射能に汚染された事を、本能的に感じたからだった。広島原爆の1000倍の威力のある水爆実験。マーシャル諸島住民の被爆後遺症は、現在でも深刻である。
 当時の日本は主権を回復した直後だった。反核署名3000万。全世界で6億。そして映画「ゴジラ」。なのに翌年には、東海村に実験炉搬入、1963年には、最初の原発が東海村で発足した。原子力平和利用、豊かな電化生活の一大キャンペーンに、国民は乗った。3.11後の衆議院選挙でも、同じどんでん返し。この、目先にぶらかげられたニンジンに飛び付く習性の根は深い。
 ちなみに、同じ1954年3月1日にビキニ環礁で操業していた800隻以上のマグロ漁船の船員も被爆、次々と早死にしたが全く保証されていない。マーシャル諸島は、1945年2月ヤルタ会談で、ルーズベルトがスターリンに君達は千島列島を取れ、俺達はマーシャル諸島を取る、と事実上アメリカ軍事基地とし、現在一部は迎撃ミサイル基地と化している。
 
 疲れを感じないのは、若者達から前向きな力を貰っているからだろうか。僕は起き上がると、真っ黒に内装されたライブハウスから、真っ白な街に出た。犬と散歩中の中年女性に会っただけで、朝の街には人気がない。見かけたゴミは、空き缶一個のみ。街は隅々まで清掃されいる。アジアの街が大好きな僕にとって、苦手な世界である。
 
 臭いも音もないきれいさに耐えられず、ライブハウスに戻った。入り口のキッチンは昼飯時の、ワイワイとした若い命が息ずいている。そこで会った昔馴染みの白髪は、海岸地帯をドライブしてきたけど、まったく何もないままだったよ、と言った。僕は、昨年会った双葉町からの避難民の話しを思い出した。
 
 地震が起きた時、彼は内陸側にいた。津波は30分ほどで来る、海辺の家には爺さんがいる。ギリギリ間に合うだろうと車を飛ばした。幹線道路は舗装がギザギザに盛り上がり、橋は通れず、とっさに未舗装の農道に切り替えた。俺はここに残る、とごねる爺さんを後ろから抱え車に乗せた。そして、農道から内陸に向かって突っ走る時だった。大地から湧きだすように、無数の蛇がうごめいてた。彼は農道に這う蛇の群れを轢いて行くしか津波から逃れる術はなかった、と言う。
 
 東北の3月11日はまだ寒かったはずだ、冬眠中の蛇さえ穴から飛び出す地震の衝撃、迫りくる津波の恐怖。津波の跡地には、虫もバクテリアさえも生き残らなかっただろう。そして、見えない放射能の津波は、静かに命を蝕み続けている。
 
 もう、飼い主が薬殺するに忍びず牧場で飼ったままの馬に異変が起こっているという。生物科学者による調査では野猿の赤血球とは血球が減少し免疫力も落ち、蝶や貝にも異変が見られるという。かなりの数の子供達の甲状腺に、小さなシコリが始まっている事を福島の町医者が報告している。チェルノブイリの例では、それが隠しようもなく現れるのは、事故から5年目だった。
 
 衆議院選挙後に進行している憲法、TPP、消費税、軍事、教育、情報統制などの津波の勢いは、原発事故の結果が隠しようもなくなる、今から3年目までに磐石とするのをターゲットとしているとしか思えない。
 
 
 福島からの避難民が、別の話しをしてくれた。内陸の都市に避難してから暫くすると、子供達のホールボディーカウンターによる被曝検査があった。2リットルの小便を採取して測った結果、最も数値の高かったのは、双葉町駐在の東京電力社員の子供であったと言う。その子供の父親は、福島第一原発に勤めていた。事故の後、自分の車を原発の敷地に残したままだった。それを、事態が安定してから取り戻し、子供を乗せていた。本来ならば、原発駐車場に置き去りされた車は、被曝しているからと補償されることとなっていたのに。
 
 東電社員でさえも、放射能被曝をこの程度に認識していたのだ。事故収束の最後の手段、腹水機の稼動を試した事もなく、その在りかを、事故の後に設計図を探しだして見つけても、決死隊員二人に防護服を着けさせたのかも定かではない。二人は数値があまりにも高いので引き返した。原発を製造した者しか、その機能も危険性をも知らないと言うことだ。東電は炉を損傷するからと海水注入を遅らせた。3月14日には、自衛隊と米軍に後事を任せ全面撤退を内閣に打診さえしている。その内閣は、放射能汚染を予想するスピィーディーの存在を知らず、その担当の文部科学省官僚も「聞かれなかったから」告げなかったという、薬害エイズや年金記録漏洩、事業仕分け等で民主党に反感を持った官僚の意図的なサボタージュ。備蓄していたヨウ素剤も配布していない。記者クラブの予算や広告費を出して貰っているからと、東電発表を受け売りするだけのジャーナリズムの不甲斐なさ。たった4人のニューヨークタイムズ社東京支店の記者が、当初からメトルダウンを指摘し連日正確に報道していたのに、日本の1000人を超える記者を抱える朝日や読売は、東電発表の受け売りばかり。メトルダウンを5月まで知らなかった。僕は結局ヨーロツパのスピーディーやアメリカのメデイアに頼るか、反原発団体のメディアや、正直で正確な科学者と技術者のコメントに頼ることとなった。福島の多くの住民は何も知らされず被爆するばかりだった。そして作業員、警官、自衛隊員、消防隊員も。
 
 
 午後遅くに二日目のライブが始まった。若いマイクの声にも楽器の勢いある音にも慣れた僕は、中味を味わえるようになった。ホンネを吠える若者達には、必死なものを感じさせられる。特に、秋田出身のスカラベリーズというバンドには参ってしまった。創世記を想わせる新鮮な言葉遣いに演奏、そして演劇性。世界にも衝撃を与えるほどの若い東北のアートが芽生えている。アートは危機に生まれる。
 
 文化力と精神力が、格差と紛争の広がる時代を生き抜くための鍵だ、と僕は思った。それを日常生活に根ずかさせることだ。特に若者や女性や老人が伝えあって流れを作って行くこと。僕は、その流れのひとつを福島で見た。
 
 舞台に、ギターを手にした年配者が現れた。1970年頃、飯舘村に入植したマサイだ。あの当時は、地元民にひどい差別を受けたりして大変のようだった。その後、養鶏業を軌道に乗せてからは、毎年夏に、満月祭と言うキャンプイン音楽祭を開き続けた。彼の農園バクは、近所に住み着いた若者とのコミュニティー活動も含めて、代替文化の拠点のひとつとなった。僕も行った事がある。イワナも棲む清流の脇、自然林に囲まれた桃源郷のような場所だったが、裏山の向こう10数キロには、福島原発が林立している。当然、彼は原発反対を唱え続けた。まさに、天国と地獄の両極に住んだ40年余り。彼が熱唱する歌に、その間の体験がこもっていた。そして、事故の体験も。
 舞台を降りたマサイと久しぶりに話した。以前はマサイ族の槍みたいに鋭く細く引き締まった体つきをしていたが、今はふっくらとしている。そして、同じ白髪族となった。
 
 「あの事故の時には避難したけど、放射能は山を越えたようで数値は低かったんだ。鶏に餌をやるため通い続け、また住む事とした。まわりの仲間は子供もいたから、みんな引っ越したけどね。去年、年配者だけに呼びかけて、また満月祭をやったんだ。今年もやる。人が来る限りやり続ける。」と、東北人となった昔なじみの言葉は少ないが、中身は濃い。
 1960年代から始まった、若者の地方に入植するという流れは、3.11以来加速した。特に九州では。昨年僕が参加した国東半島の虹の祭や阿蘇のレインボー2012などのキャンプイン音楽祭でも、2000人を越える参加者の半分ほどが新住民だった。地方の意識が都市化している。原発を過疎地に押しつけてきた都市の無神経な傲慢さを否定した若者達と地方の人々との出会いが何かを起こしている。このライブハウスにもワクワクするエネルギーが満ちている。
 
 僕は出番の前に楽屋に入った。若いミュージシャンが集っている。この日本ではごく稀な、自由で創造力に溢れている空間だ。そして、舞台を前として気が張りつめてもいる。僕は飛び入り出演だったから、ひとつだけ詩を朗読した。若いハードロックバンドが、すごく抑えたBGMをつけてくれた。無事に舞台を終えてホッとした。人と人が本音を伝えあうしかない。その流れに加わった。
 
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