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母なる者へ
           
澤村浩行

 04年4月、南インドの夏です。日中は40度となりますが、今は午前10時、まだ朝の爽やかさが残っています。今日は土曜日のせいか、向いのブラマン(司祭者)家族の息子のかける、あらゆる国の音楽をごちゃまぜにしたインド映画音楽が響き渡っています。そこの当主は、僕の借りた家のななめ向いにある寺を司っており、若い頃は、裏にそびえる聖なるアルナチャラ山の頂上まで鳥のように駆け登ったり、一周14キロある山裾の巡礼道路を、一日3回廻ったりのタフな修業で知られていたというのですが、今は寺の儀式を続けるのが精一杯。両足がやられて自宅と寺の間20メートルを行き来するだけとなったと、僕と道で逢うたびに挨拶します。彼の寺は、この地で巡礼者が二番目にお参りする、火のリンガム(男根と女陰の結合した形の石像で、宇宙を象徴するヒンドゥー教の最も基本となるシンボル)を祭ってあります。その他にも、風や水等を祭る寺が、山裾に点在します。
 そして僕の住む家は、この聖山を45年間一日も欠かさず歩き廻った女性の行者が住んでいた所で、92年に彼女が亡くなった後に、子孫を残した兄の一族が、二所帯住宅に建て増したものです。表側は、聖山に続く行止りの道、裏側は、6m×15mほど、の庭があり、高い塀の上には、巨大な岩の突き出たアルナチャラ山が空を圧して赤く堅い肌をさらしています。その頂上あたりはマッターホルン並の鋭さで、もう乾き切った熱い夏に入っているというのに、早朝などは霞がかかったりしているのは、ここまで、海から湿った空気が届いているからでしょう。単独峰であることも、その姿を高貴なものとして、来た当時は、ただその山の姿を見ているだけで丸一日が過ぎてしまうほど、魅きつけられたものです。 
 
 ここに住み着いたきっかけは、レストランで偶然同席したカルフォニア出身の星占い師が、「二世帯住宅の一つが空いているから、住まないか。」と誘ってくれたので訪ねてみたら、丸裸の庭があり、大家も好きなようにしてください、という、庭作りでもしながら、書く、散歩する、僕の定着生活の条件を満たしていたからですが、その11月頃は、北西の風が雨をもたらすモンスーン(雨季)に当たっており、その黒い雲のように、蚊の大群も押し寄せてきて、蚊屋の外では、常に身体の露き出しの部分をひっぱたいているという慌ただしい日々が続き、言い訳じみますが、山に登っては岩陰に雨宿りを繰り返したり、日中を過ごし、夜は蚊屋に入るまでは蚊との格闘に追われ、とても書いたり瞑想したりするどころではありませんでした。
 しかし、その頃は、岩とガレキばかりのアルナチャラ山も、うっすらと緑に覆われ、命のたくましさにただ圧倒されながら、雨の合間を抜いて歩いたものでした。
 
 12月、カルフォニア人が帰国。そして、雨が止まると、今度は蟻の天下です。料理をしていたので、どうしても食物のカスが出るのですが、例えば米でさえも少し古くなり発酵すると黒い蟻がたかり、黒い列となって運び去っていきました。それはまるで、暴動の起こった街で収奪する暴徒のごとし。しかも彼らを追い払おうとすると噛みついてきて、引きはがしても頭だけは執念深く皮膚に残っている始末でした。でも、食物を天上から吊るしたり、容器に入れて水に浮かべていれば、ゲンキンにも一匹だに現れません。こんな自然は、人間にも当然に影響します。
 
 強烈な存在感を持つアルナチャラ山はリンガムを思わせ、男性的な社会構造へと導いていくようです。男は神として敬うべし、(家の中では逆のようですが)、それが、このあたりの公式な掟となっており、その代わり、男性は、家事以外のすべての責任を負わなければなりません。成人女性は、まず全員がサリー姿。背に長い髪を束ねてたらし、その上部には、白いジャスミンや、赤や茶系統の花輪を飾り、外出するのは、ファッションショーの舞台に上がるごとし。特に満月の夜に一晩中アルナチャラ山の麓を廻る数万人の巡礼の行進は、まるでサリーの展示会にまぎれこんでしまったような華やかさです。普段、家と近所の店のみに限定され、お茶屋にも立ち寄れない彼女達が解放感を味わいながら次々と絶え間なく歩く様は、神話の世界に紛れ込んだかのように幻想的であり、多種多様なサリーのデザインは、黒い肌に映え、その上、歩き方が格好良く勢いついているというのですから、クラクラさせられるほどです。でも、話したら幻滅するに違いない、知的な雰囲気はゼロとは、とほほ、天は二物を与えず、人間の許容量には限界があるという例でしょう。
 男達は、目立たない白系統の西洋式シャツと腰巻かズボン、常に厳しく人の動きを注視しているのは、長い間侵略され続けてきたドラヴィダ民族の遺伝子にまで染みついた警戒心のなせる術でしょう。そして、ここの名物は蚊や蟻のように幹線道路に群がりたかる乞食です。 
 
 まだ涼しかった季節には巡礼客は多く、外人も気前良く一ルピーコインをやっている様子だったので、ただ通り抜けることが多かったのですが、大地が熱し、室内も38度という体温を越える日中に、かろうじて許された日陰にうずくまり、夜は高速バスや定期便トラックが豪音立てて突っ走る道の両脇に、ホコリや排気ガスをかぶりながら寝ている様を見ると、最少の貨幣単位である25パイサのコインを与えはじめました。日本円にすると60銭ほどですが、それでもこの季節には有り難がれるものです。
 与える度に、チラリと様子を見ると一人一人の人生の不運と、それでも生き永らえているたくましさに胸を打たれます。特に女性の乞食は、一方的に離婚され、子供からも引き離された例が多いようで、家族主義の徹底している社会からひとたび外れた者の悲惨な運命を思い知らされます。たまたま実家に出戻りを許された者も、家族の中で最下位の、掃除や洗濯をやらされ、まるで召使のように扱われる例が多いようです。極端な例は、嫁入りの時に持参しなければならない結納金や貴金属や最近ではオートバイ等の実用品が少なかったという理由で、石油をかけられて焼死させられるという事件も今だにある、という懲罰のすさまじさには、これがあまたの聖者を生み出した同じインドなのか、と驚かされます。
 
 インド人のこのような不運な者に対する態度は、前世の行ないが悪かったからそうなったのだと割り切って、ほとんどの人は関心を払うこともなく通り過ぎていきます。巡礼者がたまに小銭を与えるのを見ることはあっても、土地の人は、ほぼ完全に無視しています。それでも、時折アシュラムが食事を与えたりしているからか、ガツガツにやせるまでは行きません。そして、乞食より多いのが黄色の腰巻に半裸、長髪を荒く束ねた放浪の行者、サドゥーの姿です。所有するのは、一方の肩にかける小さなバックと、手にしたステンレス製の取手つき容器のみ。北インドでは外人を見ると双方に常用するものが多い大麻をねだったり、旅行費用をまとめてせしめようとするサドゥーが多いのですが、南インドでは、まず外人に関心を示さず、彼らだけの世界で静かに存在しています。
 僕も若い頃、たまたま文無しとなったときに、無所有に近い装備で放浪をしたことがあります。僕はその時、ヒッチハイクで手を上げる外はアスクをしない、というより手を出せなかったのですが、なんとか食い継いでいけたのは、このようなサドゥーが何千年も存在し続けてきたインドの文明によるものもあったでのでしょうが、何でも信じがちながら、どこか冷めているスピリチュアル・アナルチェストとして同類のインド人からサポートされた例も多かったようです。
 食った分だけ動く、を原則として、胃が空になったら止まり坐りただあたりの動きを観る、その内、群集の中から、ひときわ存在のしっかりした人影が僕に焦点を定めて近づいてくるのが見えてくる。その人物は、金を持って旅をしていたら決して現れない、人間対人間、個対個の関係を、この家族とカーストと宗教でがんじがらめにされた社会で求めている、インドでは例外的にパターン化されていない自由な気質を持っていました。
 向こうみずな若い時に、思い切ったことを一人でやった、あの旅が僕の人生を後戻りできないコースに乗せたのでしょうね。色々と試してみましたが、僕は結局何もない状態でいることが、一番クリアーに起きることの物語性、それも神話の世界のような、何が起こってもおかしくない、意外な物語性をたどることが出来る、と確信するに到り、何もなくとも何かは起こるのは当然ですから(自然はめぐりめぐっているので)それにただ対応する、南の国の仕掛けなしの流れに漂ってきました。でも、インドのサドゥーや回教圏のダルビシュのような宗教によって守られ認められているのとは違う、他宗教的な無宗派のままでしたので、状況次第で、その原点から離れて、金や物や女や名声のような、人間社会での地位に迷いもがいてもきました。それも、うんざりするほどまで。
 
 
 62才となって再びインドに来ました。家賃月2千5百円、食費日に百円ほど。三輪タクシーも貸自転車も使わないので、他にかかる金は、たまの映画館で入場料の50円を払う外は、日に30円ぐらいでもジャラジャラポケットを重くする小銭をサドゥーや乞食に与えるのみ。ビザも定着用のエントリー・ビザを用意して、徐々に再び無の世界に戻ろうとしていたときでした。
 87才の母から手紙が届き、一度帰国するように、とのこと。日本滞在中に訪れると「近所の人に見られなかった?」と心配するほど、僕の風体や生き方に批判的である母も、一年ほど前に父を亡くしてからは、次は自分の番だと実感したのでしょうか。死を目の前にすると、人は公平になるのでしょうか。あるいは、自分の腹から出て、自分の遺伝子を継いだ子供が、インドの路上で老いさらばえた末に果てる、というのは耐えがたいものがあるのでしょうか。あるいは、死ぬことは、とても不安なことなのでしょうか。僕が母にしたことと言えば「延命治療はしない方がいいでしょう」と勧めただけです。あの時素直に合意した母は、とても素敵に見えたのですが、やはり、僕の状況を見ると、死ぬときまで、僕のことが気になるのでしょうか。
 僕が一番長くつきあわさせて貰った人が僕を理解していないとは、と手紙を読んで随分と考えさせられました。一度は「人生最後に残った時は、充分に味わって下さい。」というような手紙も送ったのですが、母にとって人生を味わうことは、子供を愛することなのでしょうか。時間がたっぷりあるので、記憶の始まりより今に至るまでの母との関わりをたどったりしてみました。
 
 そこで思い出したのが、ここ南インド内陸にあるアルナチャラ聖山に、外国人も今だに訪れるほど人気のある。20世紀最大の覚者のひとりラマナ・マハリシと彼の母との交流の物語です。
 ラマナは12才の時父を亡くした後は、南インドで最も信仰されているミーナクシ寺のあるマドゥライの町に住む叔父に育てられていたのですが、16才の時に臨死体験から突然に覚りに到り、出奔すると、以前チラリと絵で見てから魅かれていたアルナチャラ山に辿り着き、残った数ルピーの金を捨てて以来、「金を否定するのではないが必要としないから」と一度も金に触れず、「人間の扱えるのは、フンドシ一本、腰巻一枚と、手拭い一本ぐらいしかない」とそれだけを所有して、死ぬまでこの山から離れず、ほとんど沈黙のうちに日々を送ったのですが、徐々に人が集まり、山腹の洞穴も手狭となったので、アシュラム(僧院)をその近くに建てて人を受け入れ、それはきめ細やかに、大きな愛をもって、人々が少しでも苦しみから解放されるように、その根っ子の部分である「本物の私は何であるか?」を求めるよう厳しく導いたのでした。
 
 うわさを聞いて訪れた母マラガンマルは、苦行にやつれ果てたラマナーの様子を見て悲嘆に繰れ「今すぐにでもお母さんと一緒に家に帰りましょう。」とすがりつきました。                       
 (しかし彼は一言も言わず、身じろぎひとつせず、母の声が聞こえているかどうかさえも表に出さないで坐り続けた。来る日も来る日も母はやってきた。母に空しい期待を抱かせないためにも、彼は何も答えはしなかった。)沈黙の聖者 柳田侃訳 出帆新社刊より
 
 母は彼の信奉者に悲しみをぶちまけて仲介を頼みました。ラマナは、運命の法則について書かれた短い手紙で返答し、その手紙の最後は「ですから、最良の方法は、このまま無言でいることです。」と結ばれていました。
 
 1914年に再び彼を訪れた母はそこで病気となり、ラマナは看病をしながら、感動的なアルナチャラ聖山への祈願の詩を作ることによって、彼女を重い病から救いました。そして母は三度目に彼を訪れて以来彼の元から離れることはありませんでした。
 しかし、老いた母は、毎日丘に登ることができないので、洞窟のアシュラムに永住することを望んだのですが、ラマナの信奉者は断りました。
 
 (ある日、母はそこを立ち去るのが大変辛くて、夜中に起きあがった。その様子を見ていたラマナはいたく心を動かされて、一緒に起きあがると彼女の手をとってこう言った。「さあ来なさい。一緒に行きましょう。ここに居れないのなら、どこか他のところへ行きましょう」これを聞いてアシュラムに住んでいた信奉者たちはひれ伏し、「スワミ、お願いですから、どうかどこにも行かないで下さい。御尊母と一緒にここにいて下さい」と請うた。) 前述書より。
 
 母は皆よりキーライ・パティ(グリーンの葉のおばさん)呼ばれ、親身になってラマナやサドゥー(行者)の世話をしました。朝は燃料と牛糞を拾い集め、山菜を集めると、ごはんを炊き、グレイビーソースを作り、山菜でおかずを用意すると、それを順番に壁や柱の聖像に捧げた後、ラマナに持ってきて、その後で帰ってから自分の食事をとったのです。しかしここでも彼女の母性本能は発揮されて、「あの子はこの山菜が好きだからね。」等と、好き嫌いを越える修業中のサドゥーの世話をするのでラマナは忠告したのですが、聞く耳を持たず、時には「お前が私をあのイバラの中に放り出してもかまわないけど、死ぬときだけはお前の腕の中で死なせてもらうからね。」と言って決めこんでいたのです。
 そんな母をラマナは見守り導き、世俗から引き離しました。後に、年下の息子も出家して彼女に合流することとなりました。
 
 (1922年、母の死期が迫っていることが明らかになった。ラマナは一日中付き添った。夜、信者が母の傍らで朗誦し、謳い、唱えた。ラマナは、母の延命を願うのではなく、心を落ち着かせるため、臨終の際に右手を彼女の心臓に、左手を頭に置いた。夜8時、彼女は肉体から解き放たれた。ラマナは晴れやかな表情ですぐに立ち上がり、元気な声で「さあ、食事しようか」と言った。「さあ早く、もう穢れなどはなくなったのだ」) 前述書より
 
 夜通し二人の信奉者と各々異なった経を読んでから、聖山には埋葬できない仕きたりに従い、早朝麓に運んだ。内々で密かに墓を作るつもりだったが、早朝5時の埋葬には、町の人が集まり、黒山の人だかりだった。
 その墓の上に「母の姿をした神」と呼ばれた藁葺き小屋が立てられ、翌1月にラマナの誕生祭をそこで行なうこととなったのですが、その一週間前に、いつものように一人で歩いて到着したラマナは、再び山腹のアシュラムには戻らなかったのです。後に彼は「以前マドゥライからティルヴァナマライに私を連れてきた同じ力が、今回も私を丘から下ろしたのだ」と言っています。
 今のラマナスラム(ラマナのアシュラム)は、その母の墓を中心として同心円状に発展したものです。ラマナ生存中はあまたの人をこの麓のアシュラムに受け入れ解放へと導いたのは勿論ですが、彼の死後は家族が継続して発展を続け、全インド、全世界から修業者と巡礼が訪れる聖地となりました。
 
 僕の家からラマナスラムまでは歩いて5分ほどですので、途中乞食の手にコインを落としながらフラリ立ち寄るのですが、他の訪問者と同じように最初に「母の姿をした神」の寺院を訪れます。その建物は荒けずりの石でできており、設計も現場の指図も、ラマナ自身がていねいに行なった故か、最も落着ける場となっています。そして、僕もそこで、自分の母との関係をたぐり寄せていたところに、87才の彼女が、「逢いに来るように、交通費は送るから」という手紙が届いたのです。
 僕自身62才となって世間から身を退いて、これまでの人生の整理と、迫りつつあるのを身に滲みて感じる死の瞬間に備えようとしていたのですが、短い手紙に「親というものは、いつまでたっても親なのです。」という一文字があり、ラマナの母に対する態度に照らしあわせて、色々と考えさせられました。そして、ラマナの対応の原点は(人を幻滅させないこと)にあるような気がしてきたのです。彼は決して自身の個人的愛情を母に発露した訳ではなく、そのように、人からの期待を解放へとの機会として受けとめて、育てたのではないだろうかと。母だけではなく、あまたの人に、各々にふさわしい方法で導いたそのエピソードには事欠きません。家族持ちの信者が出家をするにしても、「自分も執着を切るつもりで家出をしたのだが、結局この通りあなたの数十倍の家族をもつは目となりましたよ」と家族と共にあり続けるようにと諭してもいます。
 そんな思いやりが彼の教えをほとんど目立たないほど微細でいながら、そのスケールをとてつもなく深く大きなものとしたのではないでしょうか。慈悲心というものは、パターン化は出来ないもので、その発露は、状況によってあらゆるフォームをとるものなのでしょうか。それは、僕が乞食にコインを渡すたびに「与えるということは、余りにも多様でデリケートで難しい」と考えさせられたことにも通じることです。
 ここに住み着いて以来手がけていた僕の庭は完成し、花が咲き始めました。元々乾燥に強い葉ぼたん等の花類と、近くの木の実をまいて育てたものですので、もう水やりをしなくとも生き抜いています。この地は岩だらけですので、花壇は30センチ以上掘った上に土を運び込み、牛糞と木の葉を半年間貯めたものをぶっこんであります。塀の向こうで沐浴するインド人の水のおかげで朝顔も開きました。アルナチャラ聖山への祈りは、ささやかながら成就したようです。
 
 こんな僕の花や木への愛着は、母親ゆずりの物であることは確かです。子供の頃より花に囲まれ陶然としながら、細かく世話をしている母の姿を見てきました。それは、彼女の愛が、最も純粋に発揮されている世界なのだろうと今となって気づいてきました。それと、30年間続けた地区の福祉委員として、多くの不運な人に手を差しのべてきたことも、僕の見て見ぬ振りの出来ない、お節介じみた態度にもつながっているようです。
 いずれにしても、誰でも、孤児であってさえも、母の胎内を通ってこの世に生まれてきたのです。胎教も含めて、母が最初のグルであることには変わりありません。それを通り抜けた過去を切ることは、全てが継っているという生命の本質を切ることにもなるのではないだろうか、と、手紙を受け取ってから考えました。
 全てが継り連動しあっている。人間も自然も、地球も宇宙も、分断することは出来ないように、人間同志も、その一環として継っているのではないでしょうか。ラマナの母親に対する態度も、その真実を発露したという次元でとらえるようになってきました。
 
 ちなみに、ラマナの最期は、世間的には悲惨極まりないものに思えるかも知れませんが、僕にとっては美の極限をいったものでした。1950年、腫瘍は彼の体のあちこちに転移しました。ラマナは「なるようになっているだから、ほっておきなさい」と人ごとのように言い放っていたのですが、彼の信奉者の医者達はチームを作ると放射性物質を埋め込んだり、次々と彼の体を切り刻んでいったのです。
 ラマナは「誰も私の言うことを聞いていない」とは言ったものの、なすがままにさせたのです。彼等を幻滅させないために、そして後になってからでも彼等が気づき解放されるようにと。
 ラマナは最期の微笑みを浮かべるや、肉体から解放された。
 その瞬間は離れた所にいた信奉者もそうでない者にもすぐ感知された。白く光り輝く存在が天に走り、アルナチャラ聖山に吸い込まれていった。それを彼等は肉眼で見たのだった。
 その山の奥深くには光に満ちた空洞があると言われています。見えない聖者達が集い、また旅に出るステーションとなっているのでしょうか。出来ることなら僕もそのステーションをいつか訪れたいものです。旅の途中で。

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