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No94後半

ランダム ジャーニー 第一話
気ままに転がれ固い石
澤村浩行
━ 前半 ━

 バンコク中央駅、ファランパーン。高い丸屋根の下の構内に、市の動脈ラマシー道路を常に突っ走っている、車輌軍団の騒音が響き渡っている。その上、勝手優雅に繁栄していた時代の名残りの運河もに流れているから、腐った水も流れ込んでくる。
 バンコク市民と地方のタイ人とが出逢う構内、グローバル経済の恩恵を受けて、格安で長期のヴァカンスが可能な身分となったバックパッカーの外貨と、それを吸って喜悦するバーツが出逢う、だだっ広い駅の構内で列車を待っている。
 ここにたちこめているのは、無関心を装った、金にまつわる怨念だった。モンスーンに入りたての、まだ夏の余熱を内蔵しているアスファルトが蒸発させる蒸し熱い空気は、吸って吐くだけで汗と化し、ジットリ肌にまとわりついてて、汁たってくる。ここで威張っているのは、そんな空気だけだ。
 
 早く安くアンコールワットに行くには、まず、ここからカンボジャ国境手前のアランヤプラテットまで、列車に五時間乗る。早朝と午後に一本づつ、それも鈍行のみの運行だ。
 閑な鉄路の先のカンボジャ側は、二十一年間続いた内線で、ズタズタにされている。当然に国境からは、未舗装の道路を行くこことなる。
 朝からピックアップトラックの荷台に坐り続ける。カンバジャ側はもう既に、モンスーンの盛りだ。豪雨が連日降っている。車は水しぶきの中を、潜水艦のように進む。小さな池と化した道路上の穴に落ちないように、車はスネイクダンスを踊り続ける。勿論荷台の乗客も、好と好まざるとに関わらず、一体となって踊り続けていく。
 「アンコールワット観光のためだけにあるミエンリアップの町には、夕方までには着くでしょう。僕はそこに何度も行って顔が利くんです。色々と御案内しますよ。」
 両腕にくまなく彫られた入墨模様を汗でぬめらせながら、トトは説明した。でも聞き直してみると、彼もそんな面倒な方法で行ったとはない。バンコックからの直行ミニバスの、そこそこに坐り心地の良いソファーにもたれて行き来していただけだ。
 「でも、いつかそうやって行きたいと思ったんですよ。」
 (まー素敵。ディスカヴリーチャンネルの番組みたい。)
 その目を輝かすエマは、ヒッピーまだ華やかりし頃の七十年代に、コミューン廻りをしたり、ロックバンド追っかけを北米大陸にまでしたりの青春時代が過ぎ去った後は、パートナーのフジがライブツアーするのに同行するか、数年に一度どこかの、安いリゾート地の観光客になるか位の旅しかしてはいない。(もう、世の中のこと解かってんのよ。今更)だ。
 フジは、音楽活動以外のことは、すべてエマに任せっきりだ。今回も彼女が「インドに行く前に、タイあたりで日本のストレスを発散しましょ」決めれば、「そうしましょ」と付いて回るだけだ。舞台やスタジオでは、パーフェクトコマンドの帝王のようだというのに。
 
 このたびは、年長組三人の体力では無理だと、僕は判断した。しかし、本当に危なくなるまでは、口に出さない。彼等のロックアンドロール反逆精神の自動反応装置に引っかかって「フンッ ペッ」と無視されるに決まっている。忠告や感想に対してさえもこれだから、もし僕が年季の入った旅人として指令でもしたら、毒牙を露いて噛みついてくる。でも、正直、列車には耐えられても、未舗装の道を車の荷台では無理だ。フジは、ドーピングフリーのオリンピック大会みたいなハードロックミュージックの世界で、数々の記録を更新してはきたが、もはやその種の刺激はなんら新鮮には感じなくなってから、酒に目覚めて飲めり込んでいった。
 「こいつは、いつでも友達づきあいができるんだよ」「こんなに色々な味があるなんて、地球って豊かなんだよね」などと詩的な言い回しをしていたから、当初は良き潤滑油となっているのかなと僕は思っていた。ところが、昨秋から彼の家に居候することとなったら、とんでもない、朝から飲む。散歩コースは、ビールの自動販売機めぐり。まるで金魚が水から酸素を吸うみたいにのみ続けている。
 
 「あんたアル中でしょ」「いや、アル中みたいな状態なんだ。酒とは適当につきあいたいんだよね」というような政治的表現で済ましていたが、その内フジは、散歩にも出歩かなくなった。甘美な女性の肉体を抱くみたいに、酒ビンを丸一日抱えて、サメザメと二人で「ずいきの涙」を流している。
 今や、その身体の奥で耐え忍んできた内蔵が、次々とボロを出し「ノーモアー」と、痛みを伴う警告を発している。聞けばこれまでも何度か病院に運びこまれている。
 結局そんな体制的な場所や療法は大嫌いとなったから、以来自然療法を熱心にやり続けた。でも良くなると、その分をまた飲んで悪くするという「相殺療法」と化し、ヤバイままの現状維持を続けている五十代前半の、扱い憎い世代だ。
 エマは四十代半ばに入って、更年期障害が出てきた。身体がかなり重そうだ。医者はペンディングの状態だと言っているが、子宮を浄化する必要がある。そこで彼女は「南インドのきれいな海岸で砂浴して、アユルヴェーダの自然療法を受けたいんだよね。」と思い切った表情で、僕にガイドを頼んできたのだった。
 たぶん彼女が海外での治療を決断したのは、日本の心理的ストレスから解放されたいこともあっただろうが、フジが自発的に酒を止めるには、海外の旅という、一種危機的な環境で目覚めるしかない、という「フジ分析」をした結果だろう。
 エマには「普遍的母性とも言うべき直感がある。だから肉体も精神もボロボロとなった者が、彼女の元を訪れる。そうしていやされ回復した者を何人も僕は知っている。今や僕もそのリストに載っている。彼女の子宮も、絶望的な男を生まれ変えさせるたびに悪化した。
 
 ところで、この突発的なアンコールワット行きも、エマが決定した。僕は、北タイのパイを推めていた。三年前僕がムチ打ち症を治療するのに、タイマッサージ、薬草サウナ、森の中の露天温泉、プールと散歩コースまで揃っているこの町の環境に世話となり、結局六ヶ月かかって完治した思い出の場所だ。
 (まずは解放でしょ。楽しく遊びたいのよ。名の通った観光地じゃなけりゃ)エマの斜め気味の視線に、僕も(自分が行ったことのない所の方が食欲が涌くよ)と喜んで見返した。最初から治療では抹香臭い。それに、二人の内臓疾患には、タイマッサージよりも、アユルヴェーダの方が利く。
 東南アジアで羽を延ばして遊んでから、南インドで治療をしよう、数日前のことだった。トトが現れたからでもあった。
 
 トトは三十代に入ったばかり。トランスミュージック中毒にかかっているが、酒はたしなまず、一見、白馬に乗った騎士みたいに長身で髪も長い。全装備のつまっているという二四キロの赤いバックバックを、軽々と担ぐ体力もある。抑え気味に人を誘う会話もうまいし、入墨姿も決まっている。特に(六十代と五十代の男だけでは色気がなーい)と感じていたエマにはピッタシの新メンバーだった。
 その上「私には、シエンリアップに、自由に使える家があるんですよね」トトとが匂わせた。とたんに、内心(家と冷蔵庫とテレビ)から離れるのに不安感を感じていたエマは、ファッショングッズの衝動買いをするみたいに、アンコールワット行きを決めたのだ。ともかく結果は、三十代から六十代までの四世代が揃うキャラバンとなった。
 
 僕は六一才。このように、身近な人間に対しても突き放してみる旅人の習癖が、骨のズイまで浸み込んで来ている。どのグループとも、どの個人とも、深味にはまらず属せない。でも、どことも誰とも交わることはできる。それも、泥沼にもがいたり、氷河に凍てついたり、砂漠に干上がったり、活火山に投げ込まれたり、の関係を何回も繰り返した結果のことだ。
 (自分はいずれは死ぬ。人類の未来も、不確かとなっている。それでも、ポジティブに開きたいと思う。これまでの旅は、これからの旅の糧みたいなものとなっている。キザをてらっている訳ではないが、古人のしたように、人を求めず、人を拒まずの旅しかない)
 その決断をしたタイにまた来たという訳だ。三年前には、ムチ打ち症に全身が飛び上がるほどの痛みを抱えて、この駅からパイへと北上した。
 (初心に戻ったということだ、何の当てもなく旅に出た、二十代前半の頃に直感していたことが甦ったのだ。あの頃の意気込みはすごかったけれども、女や金や面子や権力や狂信的な思い込みに、簡単に足をすくわれた。天国に登ったかと有頂天になっていたら、実は地獄だった、という遠回りをずっとしてきて、今またスタートラインに立っている。)
 ただ若い頃と違うのは、挫折と立ち直りをし続けてきた、言わば「豊かな失敗に見える体験」が備わっている。この体験を生かせるかどうかが、これからの旅を決定するだろ。やり直しのきかない年令となった)
 
 パイの決断から三年かかった。毎日半歩づつ身を引いていった。八九年に日本に移住したのは、その日本女性と、彼女との間に次々と生まれた三人の子供達と、僕にはもったいないような巣を構えたからだった。一四年間、龍宮城で暮らさせて貰った。とても忙しかったから、あっという間だった。
 皮肉にも、始めてゆっくり自分を見つめる機会をくれたのは、僕が何年か籍を置いた損保会社の事故保険金だった。彼女の生活費を保証し、僕にはパイで六ヶ月間、人体と人生のリハビリをさせてくれたのだった。
 そのクールな目で見ると、男女関係も、同志としての関係も終わっていた。彼女は、既成社会の内側から変えようと、PTA、教育委員会、少年問題協議会のメンバーに納まった。ミイラ盗りがミイラにならなければ、それは良いことだ。しかし、それらの役職は、僕が反原発とともに、人生をかけて「人間問題として取り組んでいる、大麻の非犯罪化」の運動に抵触する。双方がダメージを受ける。
 気になった子供達については、長男は、来年高校受験、有名校を射程に入れている。次男は、サッカーで選抜された。特別トレーニングに余念がない。教育ママ、サッカーママと化した母親は、僕が撒き散らした汚名をぬぐうために、息子達を成功させようとしているかのようだった。三番目の長女まで、未だ小学二年生だといのに「お父さんは、ただブラブラしたいのね」との、おませな審判を下すようになった。その内「父親は、インドで道に落ちているものを食って、死にました」と言うだろう。
 
 彼女はかって、反原発運動の闘士だったという。始めて会った八九年には、運動のやり過ぎの精神分裂気味で、自分の面度も見れなくなっていた。僕はちょうど四半世紀に渡る海外生活の後に日本に来たばかりだった。日本語まで錆ついている状態で、何から手をつけていいのか解からなかった。そこで僕は彼女に手をつけた。そして子供が次々と三人出来た。子供が幼い頃は、貧しくとも充実していた。
 彼女は理想的な母だった。生協から自然食を購入しおふくろの味を子供に与えた。その上老人介護の仕事も続けた。全力投球の母性愛。もうそれ以上の余裕はない。彼女は子を産み育てることによって彼女の原始的な母性愛を産み育てることとなったのだ。
 だからもう、原発を話題にすると「そんなことは知りたくもない。あれはあの時のこと」で切られる。確かに子供を持つの身には、原発を知れば知るほど、恐怖のパニックに襲われ、日常生活が暗くはかなくなってしまう。それは独身者か、子育ての終わった世代のほうがふさわしいだろう。彼等は直接日常的に子を育てていない。しかし次の世代を育てることによって、種の本能と普遍的親性に目覚め育てるだろう。
 しかし例えば、息子のサッカーの応援に行くと、「来ないで頂戴」はないだろう。サッカーのコーチや世話役や婦人会の目付きの険悪だったこと。僕とは決っして外出しない理由も解かった。
 ついに売り言葉に買い言葉で、「そんなに世間が大事なら、彼等の税金に喰わしてもらったら」とまで言ってしまったからには、もう時間の問題だった。
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 かって竜宮城だと思ったこともある、その十階建の団地の一階にある家に首を突こんだとたんに、ギロチンが落ちてきた。「さあ、手続きを済まして出ていって」だ。昨年、02年10月のことだった。
 その年の始めから静岡県下を這いずり回って、「東海地震の前に浜岡原発を止めよう」という運動のセッテングを続けていた。土地の縄張りや図面、そして全国でも最も中産階級的な県「世間の常識」の壁をなんとか越えて、三月から若者向けの企画を信州のバブ達と打ち出した。五月からフジが乗り出してきて、県下のライブツアーを決行し、ようやく地元の若者たちが真剣に取り組むようになった。
 (原発がここまで列島を数珠繋ぎにするのに五十年かかった。この五十三基の呪縛を解くには少なくとも五十年かかる。ならば次の世代と繋がらなければ)
 そして八月には、若い世代が主体となったキャンプインを、浜岡原発近くの牧場で十日間続けるまで盛り上がった。政治家や社会運動家等の講演、三十バンド以上が無料出演した音楽ライブ、グラフィック関係者の会場デザイン、そして、原発ウォーク等、主催者が驚くほどの六百人以上の参加者が集まり、テーマを認識し会った。
 しかし、それが無事終わると、バブル世代の若者は遊びに消えた。後始末と次の繋ぎに僕は残り、ようやくメドがついたあたりに、シュラウドのヒビ割れがそこら中の原発で見つかった。浜岡原発もストップした。とたんに、僕がギックリ腰が再発し、ようやく家にたどり着いたら、ギロチンでチョン切られたという訳だった。
 (あー、これから、トラブルのないという寂しさに耐える人生がまた始まるのだ。)
 急を聞いて、フジとエマが駆けつけてくれた。動きの取れない僕と荷を、電車に三十分ほど乗った郊外にある彼の家まで運んでくれた。
既に一部屋が、僕のために用意されており、縁台に出ると、広い庭に秋の花がそよいでいる。(捨てる神あれば、拾う神もある。)だった。そこは、多摩川上流の、自然の気配の濃い場所だった。
 
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 フジとエマの家の近くには、東京では珍しく気分の良い散歩コースが揃っていた。涌水の噴出する小川とひっそりした森、小学生の遠足コースにもなっている丘、住宅地でさえも、車が少ない上に、緑と花に縁どられた小道が続いている。僕は淡々と歩きながら体調を整えた。彼らが料理する自然食も、回復を早めた。インド行きは既に決まっていた。三人三様に、その時に向けて備えていった。それでも実現するまでに、半年かかった。
 僕の八五歳の父が、倒れたからでもあった。手術しても手遅れの末期癌だった。病院とその後移った自宅に見舞いに行っても、僕が海外に飛び出してからの人生を許してはくれなかった。それでも、親としての愛は変わりなく、その葛藤の様子は、僕にとっても、針のムシロに坐るような痛みとなって伝わってきた。僕を一番長い間見守ってきた二人の内の一人の最期に、離婚までも見せつけてしまったのだ。
 
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 しかも、死の直前にも、その面前で、弟と生き方についての喧嘩をした。その時の父の巌しい目付きが、まだ僕をさい悩まさせている。母はまだ諦め切れずに「今からでも人生やり直して、まず長男として」と迫ってくる。(僕は、僕なりの、徹底したやり直しをするよ)とは言えなかった。
 葬式は、やはり反原発の運動で知りあった禅僧が、心をこめてやってくれた。そのお陰で、四十年振り会っても変わらない、親族一同の批難の圧力も気にならなかった。本当に有難いことだった。以前の運動の関係だったら、私生活とは完全にシャットアウトして、運動だけの付き合いで終わっていたのに、ようやく、人間的にも互いを気遣い助けあうようになったのは、これまで多くの犠牲者を出した教訓から学んだからだろう。運動は続けていけば開くものなのだ。
 葬式の直前にアメリカはイラクを攻撃した。SARSも、気味の悪いからめ手をかけてきたが、もう「毒を喰わば皿までも」だった。
 航空券は超特価、機内にマスク姿がチラホラする「黄泉(よみ)の世界に行くシュミレーション」をしているみたいな飛び方をして、バンコクに着いたのだった。
 
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 車の騒音が鳴り響くファランポーン中央駅の、高いドームの屋根の下に広がる構内。その機械音を突き抜けてこだまする人間の肉声は、フジのものだ。
 四十年間ロック歌手をやってきた男の、異様に大きな声が響く。その上、その声を耳にするものの神経を、ザラリと狂わせる。オペラ歌手とは正反対の、決して成熟しない、破れかぶれな鍛え方をしてきた、スゴ味のある声だ。
 その裏で、ボソリボソリ応待している声は、トトのものらしい。
 いつもスルリと逃げ口上みたいな対話をして、彼自身の意図するものが何であるかを探られないようにかわしているのだが、どうやらフジに、そのお調子の良さを突かれドギマギしている様子だ。トトがこれまでつきあってきた人間は(なるべくお互いに本性には触れないで)というタイプの世代だった。
 
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 トトは、人の部屋を訪れても、まずMDをコンセントに繋ぎ、トランスミュージックをかけてでなければ、何も始められない。それと、タイに来てまでもケイタイだ。同じような、バイトとトランスパーティーとカオサン道路(そして季節が良ければコサムイ島かアンコールワット)を行き来している仲間とのチャットだ。たぶん、そのレベルだけではこれからは、年令的にも時代的にも通用しないと薄々感じてきたから、僕達日本人の年長者としては異形のコンビに、アンコールワットのガイドと、荷物運びの手伝いまでボランティアすると申し出たのだろう。
 八十年代を主とした日本のバブル十余年。最も感性の鋭い十代に直撃されて、ただ物を与えられたまま無機質な胎内に育った新人類。明治維新以来分断され続けた日本の世代間の伝承は、彼等に行き着くと、細々とした道の先に断崖が待っていた、というような、暗澹たる気分にさせらるのが常だった。
 そこにトトが現れた。少なくともロープの一本ぐらいは、世代間の断崖に架けられていた。
 
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 昨日のまだ薄暗い早朝だった。いつものように散歩に出ると、一睡もしないで思いつめていたに違いないトトの姿が中庭にあった。聞けば、チャット仲間の誰かは顔も定かではないが、シブガキ族の修学旅行に来たまま居着いた少女が、昨夜ホテルで急死したという。その話が電波で飛びまくり、彼も次々とかかってくるパニック気味な若者の電話の応待に追われて、疲れ切ったということだった。
 
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 日本のトランスパーティーに何度か行って見て、その抜群のファッションセンスとスマートな金の使い方には感心させられたが、最も印象的だったのは、豪音たてるビートに乗って、波動が踊りとなって伝わっていく「集団的連動」だった。「あれ、現代の踊り念仏かな」と最初は思った。しかし、それは機械的な音響がかかっている間だけのことだ。そのクールな都合良さが気にかかる。金と機械と肉体が主人公で、後にも先にも対話は皆無だ。言わば、最も感応しやすい次元だけを集団で求める、踊るSF教壇のようなものだと思っている。
 しかし恰好が良過ぎると「想定外の死」のような現実に触れた場合には、パニックとなって逆流する。バンコクで若者が急死するのは、何かにはまり過ぎて限度を超えたと言うことだ。過度の快楽の代償は、苦痛と死によって支払われる。その原則に無知であれば、当然の結末にも衝撃を受けるのだ。
 「だったらケイタイ切って散歩しようよ」
 僕達は、早朝のチャオプラヤ川河畔から、こみ入った迷路の細道を歩いた。彼にとって、カオサン道路の回りを離れのは、初めての体験のようだった。途中身の上を聞くと、父親はない。家庭らしきも無きに等しかったという。トランスパーティーに行った時に、初めて人の温もりを感じたという。僕には身につまされる話だ。(自分の度もと別れても、人の子供が廻ってくる。)
 「でも最近、あれは入口なんだ、と思うようになったんです。やはり、もっとしっかりしたコミュニティーを求めなけりゃ」
 大気が熱く蒸れてくるまで僕達は歩いた。途中で別れ、夕方また出逢った時には、スッキリとした表情をしていた。
 「あれから、彼女が死んだっていうゲストハウスに行って、もう死体は片づけられてたけど、そのベットに線香あげてきたんです。」
 そんなナイーブなところもある世代なのだ。
 
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 改札口を正面にした十数列のプラスティックの椅子の端に坐って、僕は英字新聞を読み続けていた。バンコク市内の細道やラッシュで渋滞中の主要道路を行くのに便利な二輪オートバイのタクシーは、市に認可料を支払った印に、ナンバー入りの赤いチョッキを着るのだが、それ以外にも、地区のマフィアに毎日ショバ代を支払わなければならないという記事には、しばしば彼等の後ろに乗る僕には、人事とは思えなかった。
 横で声を張り上げる、フジは黒人と日本人の間に生まれた戦争孤児だ。闘う人生を運命づけられてきた。いつも突破口を開かなければ存在できなかった。今も、トランス世代の、スマートでファッショナブルな壁をガンガン打ち破っている。僕は、この荒っぽい行為も、結果としては、コミュニケーションに繋がることを見てきたから、新聞から顔を上げはしない。
 
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 フジの父は、朝鮮戦争に出征したまま帰らなかった。英国軍の黒人兵だった。日本人の母は一人で育て切れずに、まだ物心つかないフジを、混血児の施設に預けたまま戻らなかった。その瞬間を彼は「廻りの空気が一斉に、窓ガラスが粉々となるみたいに壊れた。」と言っているから、過酷な幼児体験であっただろう。
 日本で、黒人との混血児は、敗戦以来の新しい現象だ。しかも戦争の記憶もダブルから、かなりの偏見の中で育ったに違いない。しかしフジを預かった保母さんは、本当に愛情の深い人だったという。
 中卒と共に施設は出なければならない。まもなく、彼の音楽的才能が認められた。黒人のビートに、日本人のデリカシーが乗るギター、幼い頃からの闘志がこもる声。プロダクションに売り出され、グループサウンズのアイドルとなった野は、十四才の時だ。
 すさまじいスケジュールをこなしたらしい。それでも彼の収入は余りにも少なかった。それに、創作活動とも無縁だ。独立して自分達のバンドを結成した二十才頃からは、日本のロックシーンでは例外的な、反逆精神ダイナミックに溢れるライブで、熱狂的なファンを獲得していった。
 激動の時代だった。冷戦構造の代理を担ったベトナム戦争で露見した、現代国中産階級の欺瞞や政府の横暴に、世界中の若者たちが反乱を起こしていた、六十年代後半から七十年代初頭のことだ。
 現代国でその突破口を開いたのは、学園闘争、平和運動、コミューン運動等の集団だった。だが、それに参加した者もしない者も、一個の人間として洗礼を受けたのが、インド人までが僕らを指さして言った「セックス、ドラッグ、ロックンロール」だった。
 特に、前大戦中に発達した通信機器を利用したロックミュージックは、爆発的な音量のエレキギターに、メッセージこもった絶叫を載せて、共産圏の若者までを共振させ、自由への希望の火となって燃え続けたのだった。
 
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 僕も少しはロックを体験している。カトマンズがまだ幻想の里であった頃に押しかけたフラワーチルドレンが、ガットギターではあったが、顔を合わせばロックのライブをやっていた。それが、聖書を読むみたいに、ロックスターの曲をテープレコーダーで聞くようになってから、僕の関心は失せた。当時のアフリカやユーラシアの伝統地帯には、その日暮らしの民衆が存在を偖けて演じる、生々しい音楽や演劇や儀式が満ち満ちていた。そのルーツから聞くと、ロックはアングロサクソンとユダヤ系文化の、形を変えた世界制覇ではないかとさえ疑っていた。ハードは戦争と世界経済、ソフトは情報文化と代替文化、というような。
 だが、二十年代の録音技術の進歩とジャズの発生が、世界中の伝統音楽を刺激して、世界を目指す音楽へと飛躍させたように、六十年代後半のロックミュージックも、次から次へと伝播して、それまで一地方に限定されていた伝統音楽を世界に送り出す役割をしたことは認めざるを得ない。インド古典音楽、アフリカンビート、そしてレゲーミュージックから、アジア、アフリカ、アメリカ黒人等の、各地の若者の始めたロック系のソウルミュージック等は、現代人の間にも根強く浸透していったのだ。そこでフジは、日本土着のロックミュージックを創出したのだった。
 僕がフジのライブを最初にチラリと聞いたのは、九十年の湾岸戦争抗議コンサートだった。その音には、日本からこの時代に投げかける、ここでしか出ないソウルがあった。
 九一年には、彼と、東京でのカウンターカルチャーの拠点C+Fを維持していたアイとが主催して、池袋の天風会館を三日三晩借り切り、泊まり込みのコンサート、バザール、ワークショップ等を続けた。当時、東池袋四丁目の、車も通れぬ細道の奥の広東人アパートに住んでいた僕も助っ人に駆けつけ、「これはアムステルダム並みだわい」と驚いたのだった。それからの流れが、九二年六ヶ所村核燃料再処理工場に反対する、二千人のキャンペーンでも、彼とジョイントして、その流れと繋がったように感じたのだった。
  
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 フジの声が収まった後には、トトの姿はなかった。同じ方向に行く旅だ。いずれバッタリ会うだろう。別れて考えたほうが良い場合もある。僕も家族と別れて半年たって、彼女達の酷な態度が、僕を解き放つ為の「冷たい慈悲心」から出たものであるのに気がついた。
 無言で鈍行列車に乗ると、固い木製ベンチはほぼ満席だった。二本のプラスティック杖つきの僕は、仏教僧と身体障害者専用のベンチの隅に坐らされた。アランヤプラテットまで五時間。この東に向かう鉄路の終点には、黙してただ坐っていれば着く。本当に久しぶりのアジア鉄道ヴィパサナ(瞑想)の旅だ。
 僕のベンチの隣も前も通路の向こう側も、見習い中の少年僧から、百年前にタイムスリップしたみたいな老僧まで、さまざまな年令と個性を持った、上座仏教の僧が七・八人坐っている。彼等に共通しているのは、黄色い色に染まったまま、質素に静まり返っていることだ。
 一四世紀に、タイ、カンボジャ、ラオスがそれまでの王宮中心に盛んだったヒンドゥー教と大乗仏教から、上座仏教に転向したというのは、一二世紀に北インドがイスラム奴隷王朝に征服され、インド的影響の源泉が枯れたからもあるが、何よりも庶民が、清貧で諦命的な出家の姿に触れ、直接に感化されたからだった。特にカンボジャの庶民は、それまで、アンコールワットのような大伽藍を作るのにかり出され、高価な供物を差し出したり、複雑な儀式やバラモンの特権、王の神格化などに疲れ切っていたのだ。
 
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