prev top next

庭劇場「能書き集」
2009年



エ ン ジ ョ イ
7月27日~8月1日


 かってドイツ・ベルリンで公演のとき、年配のドイツ女性にクビククリサンと連呼され、その声の響きがあまりに明るく澱みなく、もしや日本語の首くくりの意味を間違って理解されているのではなかろうかと勘ぐり、自分の行為を忘却し呼ばれる度に、ドギマキしていました。

 想えばそのときの反応が、首くくり栲象のネイミングムにエンジョイのこころざしが、種を探し求めたのかもしれません。
 ともあれそれ以来、首くくり栲象にとって首を吊る行為が、エンジョイされているかいなかが、密やかなる探索になっています。

 年に少なくみつもって、観客なしで300日加えて、庭劇場公演ごとに首つりは挿入されるているのですから、好きこそものの上手なりの例にもれず、それなり盤石な首つりの日々を過ごしていると思っていますが、こと享楽の穂が垂れ程に実っているかといえばと…。

 率直に言えば、首くくり栲象というのネイミングは、解剖者の敏腕が手動するメスの呼応し、解剖される恥ずかしさも織り込んいるのです。
 むろん解剖は生体でも事件がらでもありません。単に解剖されている夢の中のイメージを、蜂起させているにすぎません。

 しかし、なんで首くくり栲象はネイミングも、首つりの行為も恥ずかしいと覚えるのでしょうか。
 首をつった状態は恥ずかしいのは、恥ずかしさを真芯にして吊られているからでしょうか。第一、吊られた状態を維持している以外、もはや首くくり栲象にはやるべきことはないのです。

 では、首つりの行為は人間の尊厳を損っているのか。
 なかなか難しい自問です。やりたいのであれば隠れてやるべしと、まず自答します。

 しかし、はたしてそれでよいのでしょうか。
 頻発する現実的な出来事の倣いでいいますが、いかなる芸術においても、また、暴君の権力嗜好の数々の残虐においても、さらに、ひとり殺人鬼の卑劣で恐怖を呼び起こす口笛であろうとも、人間の尊厳を全面的に否定し、押し潰すことはできないと。
 いわんや首つりおや、贔屓目があるにせよ、私のおもうところです。

 拭いがたい絶望、剥がれやすい希望、陥りやすい妄想、不快、不愉快、愉快、卑猥、清潔、嫉妬心、屈辱、憤怒、復讐心、などなど、の歴史の真剣な濁流を集めても、微動だにしないだろう尊厳の巨岩。
 いや、かえって流されることが、海へ生命のふるさとの海へと向かうのであって、流されずにい居座っていたら、濁流に川底を削られゴロリと上流へと移動させられる。

 上流になにかがあるのだろうか。
 しんたいには、たましいの側に傾く望みがある。
 たましいには、しんたいの側に傾く望みがある。
 傾いた二つの鏡。
 青空が、逆さまにうつしだされその中へ。
 空中転落。
 エンジョイ!


prev top next